「飛べないくまんばち」 日本の劇戯曲賞2014の最終候補作です。改稿してさらに良くなってますよ。

「飛べないくまんばち」

【あらすじ……僕のひとりごと】 あの日も朝からいつものように、スクーターに乗って工場へ向かってた。少し寝坊して、少し遅れそうだった。遅刻には厳しい勤めだったから、スクーターを飛ばしてた。 でも別に、仕事を大事に思ってるとか、なにか責任のある立場にあるってわけじゃない。組織の一部。機械の歯車。交換可能。 と――目の前をなにかが横切った。黒くて、寸詰まりで、ブンブンうなってて――ハチだ。くまんばち! なんだよ! あぶないって。ジコるって。仕方なく、僕は急ブレーキをかけた。目の前は青信号だってのに。 その時、顔の前を飛んでるくまんばちと目が合った。――と、父さん!? そのくまんばちは――僕の死んだ父さんだった!!!

  くだり坂の人生を転がりつづける僕と、その僕を心配して現れたくまんばちの父さん。   ときに救われ、ときに窮地に追い込まれ、ふたりがたどりついた先とは――?

「くまんばちってのは、身体に比べて羽が小さいんだ。(両手を小さく動かし)バタバタバタってね。力学的に見ても、物理学的に見ても、飛べないそうなんだ。でも実際には飛べる。 それは自分が、力学的にも、物理学的にも、飛べないってことを知らないからなんだ」

2014年10月広島友好の一人芝居で初演。登場人物7人。80分。

2014日本の劇戯曲賞最終候補

2017西の風戯曲集に掲載

2022東京芸術座アトリエ公演

2022演劇会議170号に掲載



   飛べないくまんばち

                 作/広島友好

   ○時……現代

   ○所……「僕」の住む街

   ○登場人物

    僕……38歳。独身

    彼女……20代半ば

    友達……「僕」と幼馴染み

    刑事……40代後半

    オカマバーのママ……還暦前後

    職安の職員……50代半ば

    パン屋の女主人……40代前半

    (「僕」の父さんの幻)

    (くまんばち)

  《この戯曲は以下のことを想定して書いています……》

○主だった装置のない舞台で、パントマイムの演技を軸に芝居は進んでいく。スクーターを運転しているパントマイム、集配工場で本を集める作業をしているパントマイム、パンをこねるパントマイムなど。

○装置には、テーブル代わりの台や、スクーター代わりの椅子など、ごく簡単なものを使う。

○場面転換などで劇の流れを止めないように進む。といって「間」を取らないのではなく、余韻はしっかり取りつつもテンポよく進む。

○くまんばちは、飛ぶくまんばちを追う役者の目線の動きで表現する。近くに来たくまんばちを手で払うなどの演技で。

  【初演は、作者自らこの戯曲を一人芝居で演じた】



       1《スクーターで工場へ》

       朝の街の通り。行き交う車の音。

       「僕」がスクーターに乗って運転している。(パントマイムの演技)

僕    あの日も朝からいつものように、スクーターに乗って工場へ向かってた。少し寝坊して、少し遅れそうだった。遅刻には厳しい勤めだったから、スクーターを飛ばしてた。

     でも別に、仕事を大事に思ってるとか、なにか責任のある立場にあるってわけじゃない。組織の一部。機械の歯車。交換可能。僕がいなければその日1日の効率が少し落ちるってだけだ。代わりはだれだっているし、必要とされてるわけじゃない。僕も遅刻をすればその分自分の賃金が減るわけで、それは即、その日のおまんまに直結する。つまり、コンビニで買う弁当がワンランク落ちるってわけだ。

     と――目の前をなにかが横切った。小さな、でも感覚的に危険だってわかるヤツ。黒くて、寸詰まりで、ブンブンうなってて――ハチだ。くまんばち!

     ――(手で払う)なんだよ! あぶないって。ジコるって。でもスクーターを止めるわけにはいかない。遅刻はクビにつながる。派遣はつらい。――あ、クソッ。あぶなっ。あぶないって――。仕方なく、僕は急ブレーキをかけた。(スクーターから足を下ろす)目の前は青信号だってのに。

     と、その目の前の青信号の交差点を、横から車が突っ込んできた――信号無視で――猛スピードで――。その横合いから飛び出してきた車が、僕を追い越していった軽トラックと見事にぶっつかって――ああ! ああ――ひでえぇ……。つまり僕は、危うくいのちを「拾われた」。くまんばちに。

     その時、くまんばちがまた僕の周りを飛んでた。その、顔の前を飛んでるくまんばちと目が合った。――と、父さん?!

       軽快でコミカルなテーマ音楽が流れてくる。

       飛ぶくまんばちに翻弄されているような「くまんばちダンス」を、「僕」は踊る……

                                      溶暗。

       2《彼女と公園のベンチで》

       暗い中、彼女の明るい笑い声が響く。

       明かりが入ると、そこは夜の街の公園。街灯が灯っている。

       「僕」と彼女がベンチにすわっている。「僕」は彼女に朝の街の通りでのくまんばちのエピソードを話している。

       彼女は20代半ばで、人の警戒心を解くヒマワリのような作り笑顔の持ち主。

彼女   うっそだぁ!

僕    ホントなんだって。ホントにそのくまんばちと目が合ったの。

彼女   どうしてお父さんだって思うんですか? そのくまんばち。

僕    説明できないよ。でも親って気配でもわかるじゃない。

彼女   ふぅん……。おもしろいのね、あなたって。

僕    (独白)彼女とは4度目のデートだった。居酒屋で軽く飲んで、街をぶらついて公園にやってきた。駅で別れるまでの間、ベンチにすわっておしゃべりするのが、僕らのデートの定番になりつつあった。(独白なのだが観客に内緒話のように)彼女とは出会い系サイトで知り合った。正直顔は好みじゃない。けど、話してると楽しいし、第一相手を選べる立場じゃない。(ト彼女に笑いかける)

彼女   (微笑み返して)どんなお父さんだったんですか? 聞かせて。

僕    知りたい? そんなこと。つまんないよ。

彼女   うぅん、知りたいんですもっと、あなたのこと。

僕    ……活動家だったんだ。党員。労働健康党の党員。でもこんな話――

彼女   エーッ、聞きたい。知りたい。あなたのこと、もっと。(真剣な表情で僕を見つめる)

僕    (つい顔がニヤけてしまう……独白)僕は彼女を、やっと巡り逢えた運命の人だと思った。……そろそろ僕も身を固めていい年だ。いや遅過ぎるくらいだ。独り暮らしはさみしい。このままじゃずぼらな僕はダメになってしまう。結婚が難しいのはわかってる。今の収入じゃ安定しないし、貯金もない。でも、彼女となら――(彼女を振り返り見る)彼女と一緒なら、うまくやれそうな気がした。それに、4回もデートが続くってのは確かに脈があるってことじゃ……

     (彼女に)――その、父さんはね……なんていうか、子どもの頃から僕のことほったらかして――

彼女   あのね、うちのお父さんは、早くに死んだんです。(実は僕の父の話はどうでもいい)

僕    え――? あ、ああ、そうだったね。

彼女   優しいお父さんだったけど。とってもわたしをかわいがってくれて。でもね、事業に失敗しちゃって、借金だけが残って。木材を扱う会社だったんです。木ね。杉とか檜とか。うつ病になって亡くなったんです。

僕    ふぅん。

彼女   それでお母さんが若い頃から苦労して、女手一つでわたしたち兄妹(きょうだい)を育ててくれて。感謝してるんです。

僕    そう……。あ、お母さん、具合はどう? 身体があれだって、この前んとき。

彼女   また入院したの。

僕    えっ、そう。心配だね。

彼女   すっかり身体が弱くなって。きっと無理がたたったんだと思う。早く良くなってほしいんだけど。(僕をはかるようにチラッと見て)お金ばっかりかかっちゃって。治療代も高いし。

僕    そうか。そうだろうね。

彼女   でも、うれしいこともあるの!

僕    ん、なに?

彼女   兄さんの論文がね、「ネイチャー」とかに載るかもしれないんです!

僕    「ネイチャー」って、あの?! 確かお兄さんって、大学の研究所で働いてるっていう? どこの大学だっけ?

彼女   エーッ、全然東大とかじゃないんですぅ! まだぺえぺえの研究員だし。あの、iPS細胞って、わかります?

僕    ああ……中山教授の?

彼女   アハハ、山中ですぅ! そのiPS細胞を応用して、コロナみたいな感染症対策に有効な……なんてったっけ、なんか新しい細胞組織を発見したらしいんです。

僕    へえぇ……。(化学はちんぷんかんぷん)

彼女   わたしとちがって、昔っから頭がよくて。この論文が認められたら、やっと主任研究員になれるって、喜んでて。兄さんだけが――うちの家族の希望の命綱なんです。

僕    よかったねぇ、へぇ、「ネイチャー」かぁ。

彼女   でも、それも論文載せるのに、お金がかかっちゃって。掲載料を、わたしが立て替えとかなきゃなんです。うちの兄さん全然貧乏で……。

僕    論文載せるのにお金が要るの?!

彼女   当たり前じゃないですかぁ! ただで載せてくれるところなんてないですよぅ。御三家って言われてる有名科学雑誌ほど高いんです。カラー写真とかグラフとかも載せなきゃだし。軽くブランドもののバッグが、2、3個買えちゃうぐらいなんです。

僕    へえぇぇ……。

彼女   なんでもお金お金の世の中でいやんなっちゃいますね。

僕    そっか……。

彼女   それと、もう一つあるんです。

僕    なになに?

彼女   伯父がね、お店を始めるの。

僕    伯父さんって確か、親代わりにいろいろしてくれてたっていう?

彼女   ほら、こないだ行ったミニシアターあるじゃないですか、あの近くなんです。

僕    めっちゃいいとこじゃん。人通りも多いし。

彼女   そこで働かないかって、誘われてて。

僕    へえ、いいじゃんいいじゃん。

彼女   ……本当にいいんですか。

僕    だって、今の職場、パワハラまがいの上司がいるとか……

彼女   ちょっと悲しぃ。本当にいいんですか! わたしがそこで働いても。

僕    え? え?

彼女   男性にサービスしたりするお店なんですよ、そこ。伯父さんのお店。

僕    え、や、サービスって――伯父さんのお店だって言うから……

彼女   (悲しく怒って)伯父が肩代わりしてくれてる借金があるんですぅ! あ――ごめんなさい。なんか甘えちゃって。優しいもんだから、つい。(無理に笑顔を作って)関係ないですよね、わたしがどうなったって。

僕    や、そんなこと。

彼女   今まではお母さんに頼ってたけど、身体があんなだし……。わたしがちょぉぉっと我慢すれば、兄さんの論文だって載せられ――

僕    ダメだよ。――あ、いや、論文は絶対載せたほうがいいと思うし、お母さんのことも心配だけど、けど――やっぱり。家族のことに、僕が口出すことじゃないかもしれないけど。

彼女   ……そうですよね。

僕    そうだよ。

彼女   (指を高く上げ見る)ありがとうございました。

僕    なに?

彼女   とってもとってもうれしかったです。男の人に指輪なんてもらったことなかったから。一生の宝物にします。わたし――(僕の顔をじっと見つめて瞬きしない。そうすると生理現象で涙がポロリ)ごめんなさい!

僕    え? ええ? どうしたの?

彼女   もしも――もしもあなたと――そうなれたらいいなぁって、ずっとずっと思ってたんです。このまま一緒にいられたらなぁって。でもやっばり――わたしが我慢して働かなきゃだし。だからもう、これっきり逢わないほうが――(僕の反応をチロリと伺う)

僕    待って、待って! ……実はね、これ……(とポケットから封筒を取り出す)

彼女   なんですか? (僕の顔を見てその手元の封筒に気づいて大仰に)ダメですぅ! こんなことしちゃ。

僕    少しなら、僕もなんとか。少しだけど。(トお金を用意している)

彼女   (可愛く怒って)わたし、お金に困ってるって言いましたぁ?

僕    全然全然! けど、少し都合がつけぱ助かる的なこと言ってたから。あ、ごめん。

彼女   エーッ、それは――そうだけど……。(僕にわからないところでペロッと舌を出す)

僕    いいんだって。こっちがそうしたいんだから。助けてあげられないかなって。ホントに少しだし。

彼女   うれしぃ! そんなに思ってくれてただなんて。いいんですか、エエーッ! ……実はわたしもう、最初に逢ったときからこの人しかいないって思ってたんですぅ。

僕    ホントに?

彼女   (僕のシャツの袖口を恥じらいながらつまんで)あの、あの――このあともう少し二人で……いたい。

僕    え、二人でいたいって――え? え?(期待は高まる)

彼女   もし朝帰りしても、今、うち、だれもいないし。

僕    ああ。(うれしい)

彼女   わたしたちって相性がいいと思うんです。好みも合うし、食べ物も。きょうだって居酒屋で注文聞かれて、「焼き鳥、タレか塩か」で――、

二人   タレ!(声がピタリと合う)

彼女   んふふ。きっとうまくいくと思うし、あっちのほうの相性も……たぶん。んふ。

僕    あっちって?

彼女   (頰を手で押さえて)キャーッ、なに言ってんだろわたし。ヤダヤダ忘れて下さいぃ。

僕    ああ。ああ、あっち。

彼女   (僕に不自然なぐらい顔を近づけて)顔赤くなってないですかぁわたし? んふふ! じゃ、遠慮なく、お借りします。(ト封筒に手を伸ばす)

僕    うん。――(独白)と、彼女が封筒に手を伸ばそうとしたとき、そこに、あの例の、くまんばちが、どこからともなく現れて、彼女のまぶたに――(くまんばちが針を刺す)

彼女   イタッ! ギャッ! なんじゃ、このハチ!

僕    あ、こら!(手でくまんばちを追い払おうとする)

彼女   嫌い、ハチ! あっちいけ! イタイッ! イタイ!(目蓋を押さえる)

僕    あ、もしかして――父さん!

彼女   え、なんじゃ、バカッパチ! わたしじゃイヤだってこと!

僕    んなことないと思うけど。

彼女   ああクソッ! イタァっ!

僕    あ――!

彼女   なに?

僕    (彼女の顔を見て)あ――、お、お岩さんだ!

彼女   お岩さん! (頭に来て地金が出る。本性を現わす)なんじゃと、このボケぇ! 自分の顔見たことあんのか! 池の金魚が陸(おか)のブタに出くわしたみたいなツラしやがって! バカキンギョ! バカキンギョブタ!

僕    バカキンギョブタって……

彼女   もういいっ! 帰るわたしっ。このバカキンギョ!(怒って行ってしまう)

僕    あ、待って。待って! 岩崎さん! 岩崎さぁん……!

       音楽。

                                      暗転。

       3《友達とカフェバーで》

       グラスの酒の中で氷がカランと溶ける音がする――。明かりが入る。

       そこは落ち着いた感じの大人のカフェバー。

       友達は気取ってギムレットを飲んでいる。スマートな青年実業家風の身なりをしている。

友達   で、その女なんだろ、新聞に載ってたの。

僕    そうなんだ。

友達   詐欺師家族。映画じゃないけど、いるんだね、一家で詐欺師って。

僕    実は……2度目なんだ。

友達   え?

僕    詐欺にあうの。結婚詐欺。

友達   同じ家族に?

僕    まさか。別の女だよ。2年……1年と11ヶ月前に。はぁ、こりごりだ。

友達   じゃその、家が金に困ってるってのも――

僕    たぶん、うそ。僕から金を巻き上げようっていう。

友達   まんまと(だまされた)。

僕    そういうこと。バカだったんだ。

友達   美人だったの? その、お岩ちゃん。

僕    水嶋茜って、憶えてない?

友達   なに、岬高の? バトミントン部の?

僕    ものすごく似てた。雰囲気。仕草とか。

友達   メロメロだったなぁ、そう言えばおまえ。

僕    あの子は悪くなかったんだと思う……伯父さんってやつに巻き込まれたんだよ。

友達   フッ、人が好いなぁ。相変わらず。親父さん譲りか。

僕    父さんを出すな。

友達   まぁ、落ち込むな。悪いときもあるさ。

僕    (独白)もし僕に親友と呼べる男がいるなら、彼が親友だ。でも親友同士ってわけじゃない。彼にとって僕は、たくさんいる友達の中の一人。そんな関係。

     この日も突然誘われてカフェバーにきた。おごってくれるっていうんでほいほい会いにきた。さみしいんだな、やっぱり。彼はギムレットを、僕はカフェオレを。僕はホントは酒が好きじゃなかった。――タレの焼き鳥も。

友達   で、どうかな? グッドな話だと思うんだけど。俺としてはぜひ――

僕    その話なんだけど……

友達   うん。(身を乗り出す)

僕    いや、さっきのたとえ話。くまんばちの話なんだけど。

友達   飛べないはずのくまんばちが飛ぶ。跳べるはずのノミがあきらめる。

僕    もう1回話してくれる。

友達   おもしろい?

僕    うん。さっきはなんだか頭が混乱してて。自分のことしゃべるのに精一杯で。

友達   くまんばちってのは、身体に比べて羽が小さいんだ。(両手を小さく動かし)バタバタバタってね。力学的に見ても、物理学的に見ても、飛べないそうなんだ。でも実際には飛べる。それは自分が、力学的にも、物理学的にも、飛べないってことを知らないからなんだ。知らないから、いや、自分は飛べるって思ってるから、露とも疑ってないから、飛べちゃってる。

僕    うん。

友達   一方ノミは、こいつは初めっから自分の何倍もの高さをジャンプして飛び越える能力と才能を持ってる。生まれつきね。けど、ガラスのコップに蓋して入れられてると、ジャンプするたびに頭がつっかえて、「あれ? もしかしてオレって跳べないのかな」って思っちゃうわけなんだ。それでもあきらめずにジャンプするんだけど、頭がつっかえる。

僕    で、そのうちホントにあきらめちゃう。

友達   そう。「あ、オレって実は跳べないんだ……」ってね。深く絶望する。ノミの深い絶望。そうすると、もうそのコップの蓋を取ってやっても、決してジャンプしてみようとはしないんだ。跳べないって思ってるからね。そこでおもむろに(小さなムチを振る仕草)ノミの調教を始めるわけだ。ノミのサーカスの団長がね。(なまずヒゲを指でなでる仕草)

僕    見たことあるの?

友達   え?

僕    ノミのサーカス。

友達   ないよ。ないけどさ。そういう話。飛べないはずのくまんばちが飛んで、跳べてたはずのノミが跳べなくなる。飛べないはずのくまんばちと、跳べてたはずのノミ。――おまえはどっち?

僕    そこに来るの。

友達   どっち? ノミorくまんばち?

僕    どっちかって言えば……ノミかな。あきらめてる。いや、どっちでもないよ。初めっからノミみたいな能力も才能もないし、そのくまんばちみたいに飛べてるわけじゃない。実際飛べてないし。強いて言えば、あきらめてるくまんばちかな。まったく飛べない。飛んでない。飛べる可能性もない。

友達   なに言ってんの。おまえは飛べるくまんばちだよ。飛べる男だよ。

僕    なによ、褒めて。

友達   ホントにそう思うし、幼馴染みの俺にはわかる。おまえは大きなことやれるヤツだよ。

僕    ありがと……。(少し感動する)

       ト友達がまた身を乗り出す。

友達   ――ところで、その金、まだ持ってる?

僕    どの金?

友達   女に貢ごうとした金さ。

僕    ああ。あるけど……

友達   それさ、俺に投資しない。

僕    え。

友達   さっきも話しただろ、新しい事業起こすんだって。ケータイのICチップなんだけど。金、投資してくれないかな。

僕    でも。あの金、実はカードローンで借金して……

友達   信じらんない、俺のこと?

僕    そうじゃなくて。

友達   だましたことある、おまえのこと?

僕    ないけど。ていうか、それほど付き合っては……

友達   きっと成功するよ。成功してみせる。ケータイってのは、この中に金(きん)や銀が使われてるんだよ。ほんの少ぉしだけど。で、それが手つかずのまんまで捨てられてるわけ、大量に。山になってるんだよ。ゴミの山。ケータイの富士山だよ。想像してみ。そのケータイのゴミの山の中からICチップ回収して、業者に売るんだよ。そのノウハウを持ってるんだよ、うちの会社が。いい金になるんだ。計算してみ、ケータイのゴミの山1トン当たり300グラムの金(きん)が含まれてるんだから。すごいだろ。これからはケータイのゴミの山が宝の山だからな。

僕    そうかもしんないけど。

友達   だまされたと思ってさ、女にだまし取られるはずだった金を俺に投資してくれよ。どうせだまし取られてたんだから。

僕    何度も言うなよ。

友達   ダブルにして(倍にして)返すからさ。

僕    でもなァ……

友達   もしあれだったら、――出てくるはずだろ。

僕    出てくるって、なにが?

友達   おまえの親父がだよ。くまんばちが。

僕    くまんばちの父さんが?

友達   危ない話だったら。俺がもし、詐欺だったら。

僕    (独白)僕は辺りをうかがった。けど、くまんばちの出てくる気配はなかった。

友達   な。(出てこないだろ)

僕    でもあれはたまたまそうだったのかもしれないし。ここ、カフェバーだし。

友達   (カフェバーのドアを開けて、戻ってきながら)じゃ、もう一度頼んでみろよ。父さん出てきてくれって。変な話だったら、この男刺しちゃってくれって。お岩にしちゃってくれって。

僕    ……。(独白)僕は念じてみた。父さん、変な話だったら、彼、刺しちゃってくれる。……けど、なにも出てこない。――(友達に)でもな。

友達   じゃ、10待ってみよう。10。

僕    昔やったね、そんな遊び。

友達   1、2、3、4……

僕    (独白)くまんばちは出てこなかった。

友達   だろ! おまえの親父はいい人だったよ。

僕    会ったことあるっけ、うちの父さんと。

友達   じゃ、ここに振り込んどいてくれよ。(名詞の裏にさっと銀行の振込先を書き込む)あした、午前中に。恩に着るよ。持つべきものは友だ。(名刺を差し出す)

僕    そりゃ、おまえは数少ない友達だけど。

友達   心配するなよ。絶対儲かるんだって。ケータイだぜ、ケータイ。ゴミの山が宝の山だ。

僕    ん……。

友達   言ってみ。ゴミの山が宝の山。

僕    ゴミの山が宝の山……。

友達   飛べよ、おまえも。飛ぶチャンスだよ。今の、その、――どん底から。おまえはくまんばちだよ。返せないはずの借金も返せるさ。(冷笑)

僕    え?

友達   (携帯電話に出て)あ、もしもし。サルキーコーポレーションです。あ、お世話様ですっ。ああ、ああ、あれですね。例の件。わたしの言った通りでしょ。アハハ、ハハハハハ……(電話で快活に話しながらその場を去っていく)

僕    (友達を見送って――独白)結局彼は夜逃げした。ケータイに応答なし。ラインも返ってこない。借金だけが残った。まだ1度目の結婚詐欺の借金も返せてないのに。けど、お金も痛かったけど、唯一の友達に裏切られたことが正直痛かった。いや、彼は友達じゃなかったんだ。友達なんていなかったんだ……。


       4《それにしてもくまんばちに……》

僕    それにしてもくまんばちに頼った僕がバカだった。くまんばちも相手にできない。人間という人間が相手にできない。疫病神だ。いや、疫病蜂だ。

       「僕」はスクーターに乗る。ヘルメットを被り、鍵を回しエンジンを掛け、運転し出す。(以下同様にパントマイムの演技をしながら……)

僕    そうだ、くまんばちが父さんなんてうそだ。ありゃ勘違いだ。気の迷いだ。疲れてるんだ。うつ気味だったし。よし、今度出てきたらとっちめてやろう。そう固く心に誓った。(カバンから殺虫スプレーを取り出してみせる)カバンに小さな殺虫スプレーを忍ばせて持ち歩くようになった。けど、そう思うと、くまんばちは出てこなかった。

       以下台詞をしゃべりながら演技をする……「僕」はスクーターを本の集配工場の駐車場に止める。工場に入り、タイムカードを押す。ロッカーにカバンを仕舞う。集配センターで目的の商品の本まで誘導してくれるナビゲーションの機械を受け取り、首から下げる。本を積み込むカートを押しながら巨大な工場の無数の本棚の中を巡り歩く。注文の品である本を手元の機械でバーコードチェックしながらカートに積んでいく。その商品の本を集配センターに持って行き、降ろす。そしてまた新しい商品の集配が登録されたカードをナビゲーションシステムで読み取る。そして再び本を集めにカートを押しながら本棚の迷路をさまよう。…………

僕    (右のト書きの演技をしながら……)そもそも僕は父さんが嫌いだった。日本労働健康党の党員で、人の世話ばっかり焼いて、借金まみれだった。人が好過ぎるんだ。だまされてばっかりで。そう、昔っからお金に困ってた。僕が子どもの頃、「暮らしと健康を守る会」てのを苦労して立ち上げて、給料のもらえる事務局長のポストに就こうとした。だけど会ができたところで、党から横槍が入って、事務局長のポスト取られちゃうし。そんなことの繰り返しだった。バカで間抜けでお人好し。どうやって食ってたんだろ、あの頃。化粧品のセールス。フランスベッドのセールス。トヨタのセールス。でも口下手で、商売下手で、向いてなかった。どのセールスもすぐクビになった。労働健康党の党員だったから、その筋からマークされてたってのもあったかもしんないけど。

     そうそう、夏には決まってヒロシマへ行ってた。暮らしと原爆が父さんの2大テーマだった。夏のヒロシマ。原爆の日。原水爆禁止世界大会。小学生の頃、必ず連れてかれた。でかい体育館での退屈な会議。大人はみんなじっと耳を傾けてた。とにかく暑かった。巨大な体育館に何千もの団扇の波が揺れてた。半袖の白いシャツの連なりが目にまぶしかった。核兵器廃絶。平和への誓い。いつ果てるとも知れない議論。空論。むなしい言葉。言葉。言葉。まるで蝉の鳴き声のような。夏の風物詩。――嫌だったなァ。でも、父さんは信じてた。いつか核兵器のない世界がくるって。いつか平和な世界がくるって。そう信じてた。露とも疑ってなかった。――頭がバカなんだ。

     あれ、いつだったか、世界大会の間、1日中ほったらかされた。その詫びに、少しは僕の面倒見ようと、その夜、父さんが平和公園に連れてってくれた。(この時だけふと集配作業の手が止まる)――灯籠流しを見ようって言うんだ。きれいだよって。ヒロシマに来たなら、必ず灯籠流しを見なけりゃなって。でももう、僕の心は退屈にひれてた。腹立てて、父さん無視して旅館に戻ったっけ。布団にもぐり込んで少年ジャンプ読んでた……。

       前後の台詞をしゃべりながら……「僕」は集配センターにナビゲーションの機械を返し、ロッカーからカバンを取り出すと、タイムカードを押す。カバンを肩に掛け、工場を出ると、スクーターに乗る。一日の仕事が終わったのだ。

僕    父さんは死ぬまでそうだった。自分勝手で、僕の心がわかんなかった。それが今んなって心配されても。勝手過ぎるよっ。

       5《よぅし、出てこいくまんばち!……》

       「僕」はカバンから殺虫スプレーを取り出し、構える。

僕    よぅし、出てこいくまんばち! ……て、構えてるときほど出てこないもんで。そういうときに限って姿を見せない。

       「色のない1日の繰り返しの作業」は少しずつ早くなっていく。まるで機械化されたロボットのように「僕」はなっていく。以下台詞をしゃべりながら……「僕」はスクーターに乗って出勤する。スクーターを降りて工場に入りカバンを置きタイムカードを押す。そしてテキパキと集配作業の仕事をする。忙しく仕事を繰り返していく中で、やがて人形ぶりのようなロボットのような動きになる。……

僕    (右のト書きの演技をしながら……)また同じような毎日が続いた。色のない1日。アパートと工場の往復。巨大な本の集配工場で、いつ果てるとも知れない注文をこなす。機械のナビゲートに従って、商品の本をカートに乗せ、集配センターに届ける。また命令を受け、無数の迷路の壁のような本棚から、指定された本を探し出し、カートに乗せる。それをまた集配センターへ。その繰り返し。エンドレス。その繰り返し。エンドレス。その繰り返し。エンドレス。エンドレス。エンドレス。エンドレス……自分モ機械ニナッテク。無口ニナッテク。感情ガ摩滅シテイク。

       機械と成り果てた「僕」は、ようやくナビゲーションの機械を返し、カバンを取りタイムカードを押し工場を出て、スクーターにすわる。魂が蒸発したように放心している。機械がそこに置いてあるだけのように………

僕    しばらくして、また僕が無色の、色のない人間になってったとき、くまんばちが現れた。工場へ向かう朝、(運転している)またスクーターに乗ってた。ヘルメットに当たって挨拶してる。いや、謝ってるんだ。それが、わかる。言葉がなくても。気持ち悪いけど。それが親子ってもんか。でも、いったいなにを謝る?

     僕はもう父さんを相手にしないよ。(手でくまんばちを追い払う)ほっといてくれよ。ほったらかされたままでいい。子どもの頃と同じでいいよ。

     しかしくまんばちのヤツ、相手にされないもんだから、反撃に出てきた。――イテ!(刺される) あっちいけよ! あぶないだろ。あっちいけったら! クソッ! ああっもうっ、あったま来た。こいつめ!(スクーターから降りてくまんばちを追いかける)僕はカバンに放り込んだままでいた小型殺虫スプレーを取り出した。ある意味無我夢中だった。目の前のくまんばちしか見えない。スプレーを撒き散らしながらくまんばちのあとを追いかけてく。街中だろうが、人がいようが、関係なかった。ただ目の前のくまんばちだけ。――あ。ヤツがガラスにぶち当たった。アハッ! 透明なガラスがわかんないんだ。バカなヤツ。先に進もうともがいてる。ガラスに何度もぶっつかって。ザマァミロ! よし! ……と僕が、行き場を失ったくまんばちに殺虫スプレーを吹きかけようとした――そのときだった――(以下も台詞で描写しつつ演技する)

     透明なガラスが2つに割れて、いや、そのガラスの自動ドアが左右に開いて、くまんばちをドアの中に導き入れた。それを追ってた僕も自然ドアの中へ。小型殺虫スプレーを吹きかけながら。と、くまんばちが視界から消えた――と思ったら、目の前にいたのは若い女性で……瞳が茶色でかわいかった……そのスーツ姿の女の子が……たぶん銀行のATMの案内係だ……「キャーーッ!」と悲鳴を上げたと思ったら、僕は複数の男に取り押さえられてた。小型殺虫スプレーを取り上げられて、後ろ手にねじ伏せられて。その僕の頭の上でヤツが、いや、くまんばちの父さんが、心配そうに飛んで、見ていた。…………

       「僕」は男たちに後ろ手で取り押さえられ床に突っ伏す。(というパントマイムの演技)……「僕」は頭上を飛ぶくまんばちを複雑な表情で見上げる………

       暗い中、パトカーのサイレンの音がする。その明滅する光。

       それもやがて消えて………

                                      溶暗。

       6《警察でのあれこれ》

       暗い中で刑事の「イタタタタ」という声がする。(オカマバーのママに顔を引っかかれた傷が痛むのだ)

       明かりが入る。そこは警察の取調室。机をはさみ中年の刑事と「僕」が向かい合ってすわっている。机には電気スタンドが1つ置いてある。

刑事   (引っかき傷をさすりつつ)アタタ……つまりなんだ、くまんばちを追いかけてた?

僕    はい……。

刑事   でもね、見てないよ。

僕    え?

刑事   だれも、くまんばちなんか。

僕    そんな。

刑事   ま、ね。この陽気だしね。頭がおかしくなっとるのかもしらんが。アテテテテ。(顔の引っかき傷を撫でる)

僕    はァ……。(独白)僕の生涯で、警察から取調べを受けることがあるなんて思ってもいなかった。テレビドラマを見るのとはちがって、現実ってやつは圧迫感がちがう。空気が重くって、息苦しい。この取調べの刑事が怖そうじゃないのが救いだったけど。でもこういう一見優しそうな人が実は――

刑事   で、その案内係の女の子にスプレー引っかけたってわけ?

僕    その女性にかけたわけじゃ……

刑事   (立つ)くまんばち。

僕    はい。

刑事   ……フゥム。(ため息)下手すりゃあんた、銀行強盗なんだよ。

僕    はい……。

刑事   わかってる?

僕    はい……。

刑事   (僕の顔を覗き込む)ホントにぃ?

僕    はい……。

刑事   ま、銀行強盗するようにも見えんが……。

僕    はい……。

刑事   (捜査資料を見ながら)38歳、独身。親は両方とも死んでるね。兄弟は……?

僕    姉が結婚して福井に。妹は奈良に。

刑事   バラバラ。

僕    え? ええ……兄弟バラバラです。

刑事   仕事は……本の集配工場だね。インターネット販売の、本の集配工場勤務。正社員じゃあ……

僕    派遣です。非正規です。でも、なんだかんだで2年働いてますそこで。

刑事   フム。

僕    あ――!(突然立ち上がる)

刑事   なんだ、なんだ?

僕    電話させて下さい! 職場に。クビになっちゃう。

刑事   ダメだ。外部との接触は禁止だ。

僕    接触って――連絡しないと即クビなんです。遅刻でもそうなんだから。

刑事   フン。ま、自業自得だな。(僕をすわらせる)

僕    そんな。お願いします。

刑事   しばらく様子見だ。

僕    様子見って――でも――

刑事   ダメだ。自業自得ってやつだ。今夜は――アテテテ――留置場にお泊りしてくれ。

僕    ええ……!(立ち上がる)

       留置場の鉄の扉が閉まる音がする――! そこは留置場の中。

僕    (後ずさりそして振り返る――目の前には鉄格子の扉がある……独白)僕の後ろで、鉄格子の扉が物々しい音を立てて閉まった。心にズシンッて響いた。(鉄格子を両手でつかむパントマイム)鉄格子のはまってる部屋に寝るってのは、精神的にも堪えた。「いい経験だ」――て話せるときがくるといいけど。今はダメだァ。(しゃがみ込む)

       ト留置場には「先客」が一人いた。

僕    (独白……初めは明るい口調で)ところで、留置場には先客がいた。(ビックリして立ち上がる)それが、なんと――!

オカマバーのママ  (クネッとして)あんた、なにしたのよ。

僕    なにって、別に。

オカママ 言いなさいよ。

僕    ……銀行強盗。

オカママ 銀行強盗?! その顔でぇ!

僕    顔は関係ないですし、容疑です、容疑。銀行強盗容疑。

オカママ 見かけによらず(自分のしているブラジャーの位置を直す)すごいのね。

僕    言われても、あんましうれしくないし。

オカママ あたしなにやったと思う?

僕    さあ……?

オカママ 言ってみなさいよ。

僕    男を誘ったとか。(少々投げやり)

オカママ それ犯罪でもなんでもないじゃない。バカね。

僕    バカって。

オカママ なに? 言って。

僕    じゃ……痴話喧嘩で男を刺した。

オカママ キャーッ、大バカ。想像力貧困。毛虫の脳ミソ。

僕    そりゃどうも……。

オカママ 脱税よ、脱税。

僕    脱税?! で、留置場。

オカママ ま、証拠隠滅でお店で暴れたんだけど。刑事の顔引っかいてやったわ。

僕    ああ、あの刑事さん。(取調べの)

オカママ あたし、ルルプージュ、(僕に近づく)オカマバーのママなの。

僕    はぁ……通りで。

オカママ 安くしとくから、絶対来なさいよ。ここ、出られたらだけど――ウハハハ。(笑う)

僕    (独白)そのルルプージュのママは、(ケツの穴を押さえ逃げる)一晩中僕に誘いをかけてきた。僕みたいなダサいのは好みじゃないって言っておきながら。留置場っていう特殊な環境がママの性欲を興奮させてるようだった。

オカママ あんたなんかタイプじゃないけど、サムシィじゃない!

僕    (ルルプージュのママをやり過ごしてから……独白)僕はその日一睡もできなかった。膝を抱えてすわってた。ルルプージュのママに背を向けて、つまり、(お尻を突き出す)お尻を向けて寝るわけにはいかなかったし、向き合えば、その顔が目の前にあるしで。(両膝を抱えすわる)そのルルプージュのママは、年は還暦前後で、髪をべったり油で固めてた。リーゼントでもないけど、変な髪型で。

     ……でも懐かしい匂いだった。整髪料のポマードの匂いだ。父さんと同じ匂いだ。父さんも少ない髪をべったりポマードでオールバックにしてた。そのポマードが枕に付いて取れなかった。(……次第に明かりが僕にだけしぼられていく)子どもの頃、僕は父さんの布団で寝ることがあったが、枕に汗とポマードの匂いが入り混じってて、その匂いを嗅ぐとなぜか安心できた。それが父さんの匂いだった。

       そこは夏のバスの中。少年の「僕」はバスに揺られている。(台詞をしゃべりながら演じる)

僕    そうそう、夏のバスの中でもポマードの匂いがしてたっけ。夏のヒロシマ。原爆の日。ヒロシマへ向かうバスの中。冷房も効かないでムンムンしてた。父さんはバスの先頭にすわって、みんなを仕切ってた。原水爆禁止世界大会へいく一行のお世話係だった。(前の席を覗く)なんであんなに張り切ってたんだろ。たまに家にいるときは、死んだ――メエェェ~――ヤギのような目をしてたのに。そう言えば……広島に親戚がいたってのは聞いたことあったけど。……その父さんの後ろの席で、マンガ本を読みながら、僕はじっと耐えてた。車酔いになりそうなのを。(吐き気をこらえる)父さんの汗とポマードの匂いで吐きそうになるのを。

       少年の「僕」はバスから降りる。そこは世界大会の会場。

僕    そんで、そうそう、世界大会へ行く唯一の楽しみはバッジ集めだった。いろんな組織が世界大会参加の記念バッジを作ってた。鳩や折鶴や原爆ドームのマークが多かった。そのバッジの売上金を被爆者に寄付する仕組みになってた。カメムシほどの大きさのバッジを、広島カープの帽子の縁につけて得意になってた。(帽子を被るパントマイム。帽子の縁に指を当てポーズ)そのコレクションをするのが、唯一の楽しみだった。……けどそれにも飽きて(ひざを抱えてすわる)、大会会場の体育館でぼうっとしている僕を、父さんは、灯籠流しを見に行かないかって誘ったんだった。

       父さんの幻が「僕」の心の中に浮かぶ………

僕    きれいだよ。あの灯(あか)りは原爆で死んでいった人たちの――いのちの揺らめきなんだよって。

       ――短い間。

僕    けどそれを、僕はすげなく断った。

       「僕」は顔の前で手を払い、父さんの幻を消す………

僕    ……待てよ、くまんばちが、父さんが、(手にスプレーの仕草)銀行へ僕を導いたってことは、少しはすまないと思ってたのかな。友達に、唯一の友達にだまされてるときに出てこなかったことを。借金を負わされてしまった僕のことを。それで銀行に――。でもそりゃ短絡的で、バカげた考えだ。商売音痴にもほどがある。……それともやっぱり警察が言うように、あのときくまんばちはいなかったんだろうか。僕はもう、幻覚と現実の区別もつかないんだろうか……。

       「僕」はまた留置場で膝を抱えてすわっている………

オカママ (クネッと僕を見て)あんた一晩そうやってる気?(自分でも膝を抱えて)膝抱えてすわっちゃってさ。

僕    え? いや……(自分の膝を解く)

オカママ ホント、バカね。

僕    バカ……なんでしょうね。

オカママ ふふ。バカはバカって言わないわよ。だからバカだってのよ、おバカちゃん。

僕    ふふ。

       オカマバーのママは変なヒンズースクワット風な体操を始める。

オカママ (規則正しく息を吐きながら)フッ。フッ。フッ。……

僕    な、なにしてるんです?!

オカママ 括約筋、鍛えてんのよ。すべての基本でしょ、人間の。

僕    か、括約筋……?!

オカママ あんたもやってみなさいよ。どうせ眠れないんでしょ?

僕    遠慮しときます。

オカママ いいから! ほら。さぁ!

       「僕」も嫌々ながら、ママを真似て、体操を始める。

オカママ フッ。フッ。……

僕    (見よう見真似で)フッ。フッ。……

オカママ (体操をしながら…以下しばらく続ける)フッ。フッ。……お客から聞いた、ちょっとつまんない昔話があるんだけど、聞くぅ?

僕    (体操をしながら…以下しばらく続ける)つまんない話は……

オカママ 聞きなさいよ!

僕    は、はい……。

オカママ むか~し、昔のことなんだけど、あるセレンディップていう国の王子が……

僕    セレンディップ……?

オカママ そう、セレンディップ。セレンディップの国の王子が、父親の王様に命令されて、本当の自分の姿を写し出す魔法の鏡を探しに、ペルシアの国へ旅にやらされるの。だけど、あんたみたいにおどおどして、挙動不審の王子はすぐに怪しまれて、ペルシアの王に捕まって、牢獄に入れられちゃうの。

僕    (体操を)もうやめても……

オカママ まだよ! きつくなってからが勝負なんだから。……どこまで話したかわかんなくなっちゃったじゃない!

僕    (ヘロヘロになりつつも体操をしながら)ペルシアの王に捕まって、牢獄に……

オカママ そう。それでね、クズグズしてる王子はついに死刑宣告を受けて、毒ヘビのうようよいる洞窟に放り込まれちゃうの。王子、危うし! でも、寸でのところで、同じ牢獄にいた飲み屋の女の、命を懸けた活躍で、なんとか誤解を解くことができて助かるの。セレンディップの王子はパンツ一丁でペルシアから追い出されて、命からがらセレンデップへ帰るの。結局は、本当の自分の姿を写し出す魔法の鏡は見つけられなかったんだけど、その牢獄の飲み屋の女と恋に落ちて、一緒に国へ帰ったってわけ。めでたしめでたし。

僕    (気づかれないように体操をやめている。尻と足ががくがく)で、あの、そのお話って、なにか……教訓が?

オカママ その飲み屋の女ってのが実は男で、あたしたちのお仲間だったのよ。

僕    ええっ。遠回しに口説いてません、僕のこと?

オカママ バカ。よく考えなさいよ、その毛虫の脳ミソ、フル回転させて。

僕    はぁ……。…………

オカママ (僕のぐずぐずさにしびれを切らして)もうっ。そのセレンディップの王子は、実は女よりも男が好きなんだってことに、その旅の冒険と恋によって気づくのよ! 魔法の鏡は手にできなかったけど、そのときまでわからなかった本当の自分を見つけて、生涯のパートナーを得たってわけ。わかった?    

僕    やっぱり口説いてるとしか……

オカママ ミジンコバカね。

僕    ミジンコバカ?

オカママ (網で掬えないものを掬う手つき)すくいようがない。

僕    はぁ……。

オカママ 人生、一生懸命なにかを見つけようってあがいてると、たとえそれが見つかんなくても、案外、別の大切な宝物に巡り会えるかもっていう、そういうふか~いお話なのこれは! ノーベル賞級の大発見もたいていそんなもんよ。(親しみを込めて)もうっ、頭の悪い男は嫌いよ、ハハハっ。

僕    すみません。

オカママ バカね、あやまんなくても。……さ、寝なさいよもう。あしたはくるんだから。元気なくっちゃしょうがないでしょ。きょうがどんなみじめでも、あしたは必ずくるんだから。ね。

僕    です、ね。

オカママ (鉄格子の外を覗きながら)……あぁあ、ここってヒゲソリあるのかしら。やぁね、朝起きて、ヒゲぼうぼうなんて。格好つかないわよ。

僕    ハハ。(笑ってしまう)

オカママ ふふふふ。なんかこぅ、胸が燃えたぎるようなすっごい出逢いってないのかしら。ああっ――、サムシィっ!

                                      暗転。

       7《5日目の朝、僕は処分保留で……》

       明るい日差しの差す中、鉄格子の扉が開く音がする。

       「僕」は大きく息をつく。そこは警察署の外の通り。留置場から釈放されたのだ。

僕    5日目の朝、僕は処分保留で釈放された。「処分保留」だなんて気持ち悪い。保留の処分が一生続くんだ。なにかあったら合わせ技で、即逮捕・起訴だ。刑務所行きだ。

     (携帯電話を取り出して見る)スマホのメールボックスは工場からのメールでいっぱいになってた。僕の直属の担当者からのものだ。「連絡なければクビです」。僕はすぐにその担当者に電話した。けど、ケンモホロロ。「あなたではローテーションが組めません。歯車が回りません。代わりはだれだっています」。――悔しかった。一言いってやりたかった。(携帯電話の送話口を手で押さえて)「あんたも交換可能な機械なんだ!」――って。……ともかく、僕は無職になった。まったく、父さんのせいだよ!

       椅子にすわる。そこはネットカフェ。「僕」はカップ麺をすすりながらパソコンのインターネットを見ている。(パントマイム)

僕    4日ほど僕は行き場がなくて、ネットカフェで過ごした。昼間は暑くてアパートにいられなかったし、会う相手もいないし。カップ麺の汁をすすって過ごした。

       「僕」は立ち上がり、歩く。職業安定所へ行く。その扉をくぐる。

僕    ふと思いついて職安に行った。職業安定所。ハローワーク。職安に来るのなんていつ以来だろう。いつもはケータイで仕事を探してきたから。派遣会社に登録して、その情報をもらって。でも、もう派遣は嫌だ。(ファイルの棚から正社員の求職一覧の紙を取って見る)できれば正社員がいい。しかし、高卒には条件が厳しかった。(正社員の求職一覧の紙を戻す)高卒の自分がみじめだった。それもこれも家に進学する金がなかったからだ。父さんのせいだ。貧乏のせいだ。いや、情けない。すり替えだ。

     (隣の棚のアルバイトの求職一覧の紙を取って見る)事務もダメ。パソコンが使えない。運送業もきつそうで、ヤだ。営業……ノルマノルマでますますうつになりそう。工業デザイナーなんて無理。専門技術もない。レストランでのバイト経験があったので、飲食関係の求人を専用パソコンで検索してみた。(パソコンの前にすわる)パソコン一人30分。(指で画面にタッチして覗く)コック見習い、皿洗い、ウエイター、どれもバイトだ。

       軽快でコミカルなテーマ音楽が流れてくる。「僕」は飛んできた父さんくまんばちを目線で追う。

僕    と突然、なにかがパソコンの画面にぶち当たった。くまんばちだ。父さんだ。神風特攻隊みたいにパソコンに体当たりしてる。痛いだろそれ? 反省してるのかな。罪滅ぼしか。そんな感じだ。(父さんくまんばちがまたパソコンの画面に体当たりした)――やめなよ、父さん。なんだよ。と、パソコンの画面が変わった。くまんばちの父さんが求人検索をクリックしたのだ、身体で画面を押す要領で。

     ――パ、パン屋?! 「石窯風欧州ブレッドのお店・フレンチバゲット」。ここに勤めろってこと? 父さんのくまんばちは、僕の目の前をうなずくように小刻みに飛んで、また消えてしまった。

       テーマ音楽も消える。

僕    これって幻覚じゃないよな。だってパソコンの画面は変わったんだし。とにかく僕はそのパン屋の求人票を印刷して、職安の相談窓口に向かった。

       相談窓口にすわっている職安の職員に、「僕」は求人票を差し出し、椅子にすわる。

       職安職員はどこか気取った風にしゃべる。動作にも独特な気取りが感じられる。自分の仕事にある種の誇りを持っているようだ。

職安職員 世界一素敵な職業って、パン屋じゃないかと思うんです、わたくしは。もちろんこれはわたくしの個人的な意見で、職安を代表するものではありませんが。でもそれは、絵描きや詩人と同じで、だれにでもなれるわけではなく、選ばれた者のみがなれる職業、天職だと思うんですわたくしは。いやそうですか、(求人票を見て)「石窯風欧州ブレッドのお店・フレンチバゲット」。あなたがこの店を選ばれた。そうかもしれません。これがあなたの天職かもしれません。

僕    天職……ですか。

職安職員 どうなさいます? 面接に行かれますか。飛んでみますか。

僕    飛ぶ?

職安職員 あ、いえ、言葉の綾でして。飛んで、急いで、行かれますか、という意味でして。きょうは金曜日で、それにもう午後ですから。

僕    ええ。お願いします。

職安職員 では、ハローワークの紹介状を差し上げます。どうぞ、よい出会いを。

       「僕」は紹介状をもらって椅子から立ち上がる。

僕    変わった職員だ。……でも、「天職」なんて考えたこともなかった。もちろん、パン屋になろうとも。天職なんてあるんだろうか。「天職」だなんて、成功した者がおためごかしに言う言葉だと思ってた。あるいは気取った自信家が口にする修飾語だと。でも、パン屋には惹かれた。なんかいい。響きがいい。……「天職」、そんなものに出会えたら、少しは僕も変われる気がする。飛べる気が――。

       別の失業者がさっきの職員の前にすわる。

僕    ……次の男が、相談窓口にすわった。印刷した求人の紙を持ってる。さっきの職員がこんなことを言ってた。

職安職員 世界一素敵な職業って、左官屋じゃないかと思うんです、わたくしは。もちろんこれはわたくしの個人的な意見で、職安を代表するものではありませんが。でもそれは、絵描きや詩人と同じで、だれにでもなれるわけではなく、選ばれた者のみがなれる職業、天職だと思うんですわたくしは。いやそうですか、(求人票を見て)「確かな技術と信頼。求む左官職人。石田建設」。あなたがこの店を選ばれた。そうかもしれません。これがあなたの天職かもしれません。

僕    ……あのトークが、あの職員の天職なんだろか……。

       「僕」は紹介状を持って街の通りを歩き出す。


       8《女主人とパン屋で》

       「僕」は街の通りを探している。パン屋を見つけ、ガラス戸越しに店内を覗く。店はガランとすいている。「僕」は「エイヤッ」と気持ちに弾みをつけてドアを開ける。ドアに付いた鳴り物が「カランカラン」と乾いた音を立てる。

       店の奥から白い調理着を着たパン屋の女主人が出てくる。「僕」は挨拶し来意を告げる。女主人は「僕」に椅子にすわるよう促し履歴書を受け取る。女主人は「僕」の向かい側にすわる。………

僕    パン屋ってのは、あなたの天職です……そう言われたんですよ、職安の人に。

女主人  そうなの。(履歴書を見ている)

僕    パン屋は天職ですか。

女主人  (一瞬ひどく動揺する。面食らう)――え? なに? あたし――?

僕    天職……?

女主人  ――天職って……。(気持ちを立て直して)親の店だからここ。どっちかって言えば、転職よ。元々OLだったんだから。嫌々継いだの。

僕    嫌々。そうですか……。(独白)「石窯風欧州ブレッドのお店・フレンチバゲット」は、駅から徒歩8分、商店街から1本路地を入った所に店を構えてた。古い店だ。昔ながらの町のパン屋さん。客も少なかった。金曜も午後遅くだから……だろう……たぶん。で、面接に出てきたのは、ヒゲを生やした、恰幅のいい、(歌うように)「パン屋のご主人」――ではなくて、ポチャッと太ってはいるが、ヒゲのない、女主人だった。年は僕より上だろうか……

女主人  女性がよかったんだけど。

僕    え?

女主人  女がよかったの。お店手伝ってもらうの。あからさまに書けないでしょ求人に。逆差別になっちゃうし。

僕    はぁ……。

女主人  経験ないみたいだけど、パン屋の。

僕    レストランで、少し厨房の経験は。

女主人  どのくらいの期間?

僕    半年……だったかな……。

女主人  将来パン屋になりたいの?

僕    え? あ、いや……

女主人  天職か――、なんて聞くからさ。

僕    正直、考えたこともなかったです。くまんばちがパソコンに……

女主人  え? なに? くまんばち?

僕    あ、いえ、なんでもないんです……。

女主人  ……。

僕    ……決まれば、一生懸命がんばります。

女主人  決まれば、ね……。

僕    ……。(気まずい)

女主人  ……パン、食べてみる? うちの。

僕    ――?

女主人  天然酵母。(立ってパンを取りにいく)

僕    あ、はい。

女主人  (バゲット……ハード系のパン……を1つ取って渡す)

僕    (受け取って)天然酵母。(思いのほか固い。なんとかちぎって)……いただきます。

女主人  どう?

僕    ん……カタい。――あ、いや、うまいです。おいしいです。なんか……ちがいます。

女主人  わかる? ちがいが。

僕    なんとなく……ですけど。(あごを目一杯動かして食べる)カタいけど……うまい。

女主人  作るの面倒くさいけど、ちょっとしたこだわりなの。自家製で。その天然酵母のパンだけは全部手でこねる、パン生地を。時間もかかるし、体力もいる。

僕    はぁ……。(あごを懸命に動かし食べている)

女主人  ミキサーもあるけど、手でこねると味がちがうの。パン生地と会話するのがいいんだと思う。きょうはどう? どんな調子だ? おいしいパンになれそう? てね。だから、天然酵母のパンだけは手でこねる。

僕    その、親譲り……?

女主人  ちがうよ。あの人は手抜き人間だった。小麦粉もイーストも出来合い。パンもごまかし。日常の馴れ合い。焼いて売るだけ。腹一杯になればいいって時代のパン屋。

僕    でも、お店に風格が。年季が入ってる。

女主人  古いだけ。

僕    でも、石窯焼きって。――あれ? どこに石窯が?

女主人  「ふう」。

僕    え?

女主人  石窯「風」。

僕    いしがまふう(石窯風)。

女主人  (厨房のオーブンを示して)オーブンに石窯の飾りが付いてるだけ。昔、パリの石窯焼きのパンに憧れてた、あの人の「名残り」よ。パリで修行してみたかった、あの人の。東北の田舎で育ったぼくちゃんの憧れだったのよ、パリが。フンッ。

僕    東北の……そうですか。石窯風……欧州ブレッドのお店・フレンチバゲット……。

女主人  ……。(改めて「石窯風」と言われると面白くない)。

僕    はい……?

女主人  取りあえずあしたから来てみて。

僕    採用ですか!

女主人  試用期間。お試し3ヶ月。

僕    お試し……。

女主人  それが嫌なら……(履歴書を返そうとする)

僕    (立つ。姿勢を正す)いえ、がんばらせていただきます。

女主人  ……じゃ、あした朝4時に。

僕    ええ? よ、4時! 4時?

女主人  ア・サ・ヨ・ジ。

僕    (独白)しまった……! そうだった、パン屋は(歌うように)「朝一番早い」んだ。

                                      暗転。

       9《寝つけなかった。案の定……》

       暗い中、真横に傾けた「僕」の上半身だけが明かりの中にぼんやりと浮かび上がる。両の手のひらを合わせて頬の下に差し入れ、眠っているようなポーズ。

僕    寝つけなかった。案の定。ウトウトしたのは(携帯電話を見る)2時か3時。日頃の生活習慣がそうなんだ。無駄に夜更かし。(寝るのをあきらめスクーターにすわる)しかし3時過ぎには起き出して、パン屋へ向かった。「石窯風」のパン屋に。スクーター飛ばして。夜の街にエンジン音がやけにうるさい。

       スクーターのブルブルいうエンジン音が夜の街の静寂にこだまする。

       「僕」はスクーターを運転する。風がまだ冷たく首をすくめる。

僕    夜明け前の街の景色を見るのはいつ以来だろ。頭が朦朧とする。落語の――「芝浜」の世界だ。酒好きの魚屋勝っつぁんが、女房に起こされて夜明け前の魚河岸に行く。酔ってサボってばかりで、久々の河岸通いだ。でも刻(とき)をちがえて起こされて、魚河岸にはだれもいない。腹立ち紛れに浜辺に顔を洗いに行く。と、そこで見つけたのが革の財布の四十二両。女房の元へすっ飛んで帰る。この金で、飲んで食って楽して暮らしてこうと女房に言う。上機嫌で酒を飲み、また酔っ払って寝てしまう。しかし明くる朝、女房に、革の財布を拾ったなんてとんでもない、「夢だ夢だ夢だ、情けないねぇこの人は」と言われ、怠け心で悪い夢を見たかと思い、真から悔いる。それからは心入れ替え、仕事に精出して……なんて落語好きのじいちゃんの影響だな。ラジオで二人で聞いたんだっけ? こんな早起きして、僕はなにを拾うのやら。それともこの状況って「夢」なんだろか。

       トそこにまた父さんくまんばちが出てくる。

僕    ――や。また出た。父さんっ。くまんばちって、夜は目が効かないんじゃないの。(くまんばちがまとわりつく)やめてよ。遅刻するよしょっぱなから。早く行かなきゃまたクビだよ。父さんが選んだ仕事じゃない。やめてってば。……しかしどんどんどんどんスクーターはパン屋への道を逸れていく。いや、くまんばちの父さんにどっかへ導かれてるのかも。……川だ。広い川だ。財布でも落ちてるの、父さん。まるで「芝浜」だな。

       川のせせらぎの音がする。そこはまるでかつて父さんが少年の「僕」を連れて訪れようとしていたあの日のヒロシマの川のようだ……。幻のように灯籠が流れてくる。かすかに「死」の気配が漂う。舞台を川に見立てての演技。………

僕    ――待って。川の向かうにぼんやりと薄く朝日が差してる。(立ち上がりスクーターを降りる。川の方へ導かれるように近づいていく)いや、あれは朝日じゃない。灯籠だ。灯籠が流れてくる。赤、橙(だいだい)、青、白。無数の灯籠が流れてくる。川面がぼんやり灯りに染まる。その川面に揺らめいて映るのは――あれは、原爆ドームだろうか。ドームの、骨組みだけの丸屋根が川面に揺らめいてる。その影の上を音もなく灯籠が流れてくる。その灯籠には人の名前が書かれてた、亡くなった人の名前が。――これを見せたかったの、父さん。そんなに心残りだったの。僕と灯籠流しが見れなかったことが。

     ――あ、あれ! ……その無数の灯籠の中に、父さんの名前が書かれた白い灯籠があった。その流れは意外に早く、僕の目の前を通り過ぎていってしまいそうだった。が、僕は川辺に立ち尽くしてた。それを見送ろうとした、父さんの灯籠を……。でも、くまんばちが僕にうるさくまとわりつく。川へ入れとしきりに促す。灯籠を手に取れと。

     けど……僕は川に入るのをためらった。面倒くさかった。足の濡れるのが嫌だったし。――灯籠なんて流されちゃえばいいんだよ。流されてしまえば。そしたらすべて終わる。(くまんばちはなおもまとわりついてくる)やめてよ、父さんっ。流されてけばいいじゃない灯籠なんて。父さんはもう――死んでるんだよ。ああっ、もう。うるさいな。(くまんばちを追い払おうとする)

       しかし、父さんくまんばちのしつこさに負け――

僕    ――もうっ。わかったよっ。わかったから――。僕はくまんばちのしつこさに負け、えいっと岸を降り、川に入った。(灯籠を拾う……パントマイム)寸でのとこで青い灯籠を手に拾った。早い流れに危うく取り損ねるとこだった。しかしそれは……父さんの灯籠じゃなかった。――え? なんで?(手にした灯籠を見る)それは――僕の名前の書かれてる、僕自身の灯籠だった。アッと思ったときには、父さんの白い灯籠は手の届かない所に流されてた。――(手の中の灯籠を見る)僕の灯籠? 僕の……僕の――いのち……? これって、どういうこと――? ……父さん。

       川のせせらぎの音が大きくなる。

       灯籠の灯りが川面にぼんやりと揺らめいている中で…ゆっくりと暗くなる。


       10《「石窯風欧州ブレッドのお店・フレンチバゲット」で》

       そこはパン屋の厨房。

       白い帽子に白い調理着の女主人がパン生地をこねている。作業台の上を手で払い、ボウルからパン生地を出す。丸みを持ったパン生地を全身の力を込めてこねる。以下女主人は台詞を言いながら絶えずパン生地をこねたり、パン生地をパンの形に成形したりの作業をし続けている。(パントマイムの演技、または実際にパン生地をこねる)

       そこに「僕」が慌てて白の調理着を羽織り白の帽子を被りながら飛び込んでくる。

女主人  30分遅刻ね、次は許さないわよ。(パン生地をこねている)

僕    (独白)女主人は怒ってた。天然酵母のパン生地をこねる丸い背中から、湯気が立ってた。

女主人  理由はなに?

僕    (半分独白)灯籠を拾ってた――とはさすがに言えなかった。(女主人に)……寝坊です。

女主人  向いてないかもね。自覚がない。

僕    もうしません。

女主人  謝るだけなら小学生。

僕    すみませんでした。

女主人  だから。なにグズグズしてんの。パン屋の朝は忙しいの。さ、手ぇ洗って。そこの石鹸で。肘までしっかり。(パン生地を手のひらで伸ばしてはまた丸めてこねている)

僕    はいっ。(流しで素早く手を洗いエプロンで手を拭きながら戻ってくる)――で、まずは、なにしましょう?

女主人  (台や棚に置かれた食材などを指しながら)パン生地をこねる。小麦粉に、塩、水、イーストを入れてこねて、発酵させる。その間にこっちのオーバーナイトで発酵させた生地を、分割して丸める。

僕    ブンカツ……?

女主人  カットして、丸める。

僕    ああ、パンの大きさに……

女主人  んで、ベンチタイム取って、パンの形に成形して――

僕    あの……ベンチタイムって?(両手で野球の「タイム」のTの字を作る)

女主人  (イライラして)いいからっ。あんたは取りあえず――見てて、1日、あたしのやることを。

僕    はい……。

女主人  あ――でも、そうだ、あしたから来なくていいから。

僕    ええ?

女主人  1週間休業します。

僕    なんで! それってもしかして、遠回しにクビぃ?

女主人  なに言ってんのよ! 休業って言ったでしょ。

僕    (涙目になっている)でも、来た早々休業って? それってクビの口実じゃ――

女主人  (あきれて)もうっ。福島へ行くのよ。福島へ。

僕    福島? なぜまた福島?

女主人  フリーマーケットに出店すんの。……福島には、あの人の、父の、田舎の家があるのよ。じいちゃんばあちゃんちが。

僕    ああ……お父さんの。東北のパリぼくちゃん……。

女主人  あるって言っても、あの辺り、ほとんどだれも帰れないんだけどさ。帰りたくても。

僕    帰りたくても……帰れない? (漠然とだが原発事故のことだと思い至って)あっ――、それって……もしかして?

女主人  みんな忘れちまってるけどね、福島のことなんて。

僕    (思わずうなずく)ええ……。――あ、いえ、そんなことは……

女主人  (作業の遅れを気にしつつも、手早く手の粉を払い、自分のスマホを取って写真を僕に見せる)これ。これがじいちゃんばあちゃんち。

僕    ああ……立派なおうち。

女主人  昔の写真だから。古くからの旧家だったし。今は荒れっぱなし。草ぼうぼう。家ん中はイノシシと空き巣でめちゃくちゃ。

僕    ……あの、この真ん中に立ってる細くて、かわいい女の子は?

女主人  あたしよ。

僕    ええっ!(心底驚いて女主人と写真の少女を見比べる)

女主人  失礼ねえっ。

僕    や、その……

女主人  (微笑みが心の内側から自然にこぼれて)……昔は、お盆や正月になると、親戚中が集まって、にぎやかだったんだよね。酒好きの飲んべえのおじちゃんや、民謡うならせたら浜通り一のおばちゃんなんかがいて……。今はもう見る影ないけど……。

僕    ……。

女主人  (スマホの写真をスクロールしてフリーマーケットの写真を僕に見せる)あしたから福島行くって予定組んじゃってたの。フリマ。ささやかなあたしなりのボランティア。復興の。

僕    わっ、けっこう店出てますね。

女主人  んなでもないよ。震災直後に比べたら、どうしたのってぐらい他所の県から出店する店が減っちゃってる。年々風化していってんのが肌でわかる……。だけど、だけどさ、ナニクソって意地になって、行くの続けてんの。(自嘲して)撤退するってことができない人なんだよね、あたしって。この店と一緒でさ、ハハハ。バカでしょ?

僕    (ハッと言葉が蘇って)バカは――バカって言わない! ……あしたはくるんだから。元気なくっちゃしょうがないでしょ。きょうがどんなみじめでも、あしたは必ずくるんだから……だそうです。

女主人  (少し笑って)なにそれ? どっかの偉い人のセリフ?

僕    ハハ、ある意味。

女主人  (また作業に戻って)とにかく――前から決まってたの、福島行き。そこへいきなりあんたが面接来たから、言うの忘れてたきのう。ごめん。

       ト「僕」は弾かれたように突然―――(日常の中の小さな「奇跡」のように)

僕    僕も――連れてって下さい! (独白……自分でも意外)思わず僕は口走ってた。自分でも突然なにか言い出す「とき」ってあるけど、このときがまさにそうだった。いや、(体より小さな羽をバタバタバタと動かす仕草)僕は飛ぼうとしてるのかもしれない。――(女主人に)僕も連れてって下さい――!

女主人  え?(思わず作業の手が止まる)

僕    僕も――福島へ――連れてって下さい。

女主人  ……やったことあんの、ボランティア。

僕    全然。

女主人  じゃ、なんで。観光?

僕    まさか。

女主人  パン屋の修行?

僕    てわけじゃ……

女主人  だったら、なによ。(怒っている。またパン生地をこね始める)いいよ来なくて。これは仕事じゃないし。それに――迷惑、遊び半分って。

僕    や、ちがうんです、その、強いて言えば――くまんばちなんですっ。(小さく羽を動かす仕草)

女主人  ……なに、それ。

僕    だからくまんばち……

女主人  ……もしかして、あたしの体形がくまんばちってこと?

僕    そういう意味じゃ。それに、くまんばち好きですし。

女主人  なにが言いたいの?

僕    思わず口走ってたんです。飛べる――って今、そう思ったんです。

女主人  (パン生地を丸めている)寝ぼけてんの? 飛べるとか、くまんばちとか。

僕    その、つまり、できそうにもないことが、できるんじゃないかって。飛べるんじゃないかって。(灯籠を拾ったときの仕草)「いのち」――拾ったんだから、なにかやることあるんじゃないかなって……

女主人  (手を止める)いのち拾うって……、天職だっての――?

僕    天職……そこまでは、言えませんけど。でもここ何年かで初めて自分の意思でやってみたいと。行きたいと、福島。だから――すみません。変だ……寝ぼけてんのかな。

       ――短い間。

女主人  ……あんた、パン屋は天職かって聞いたよね、あたしに。

僕    え? ええ。

女主人  ――あれ、正直参ったよ。店入ってきて、会っていきなりだったもんね。「パン屋は天職か」って。……それ、この仕事就いてからの、あたしの疑問だったずっと。

僕    天職……がですか?

女主人  そう、パン屋はあたしの天職か。

僕    ……。

女主人  思わず――思ってた。

僕    思わず、思う?

女主人  (知らずに止まっていた手を動かす)今のあんたみたいに、よ。あんたにいきなり聞かれて、パン屋は天職かって聞かれて、こっちが無防備なときに問いかけられて、思わず思ってた。

僕    なんて……?

女主人  そうかもな……って。

僕    ……。

女主人  今、「微妙~」って思ったでしょ。

僕    いえ、そんなことは……決して……(実はそう思ってた)

女主人  わかんない、正直。でも、今はこれしかない。パン屋しか。(トさらに力強くパン生地をこねる)……仲のいい友達誘って共同経営でやってたんだけどさ、この店。パン、思ったより売れなくて。値段高いしね、天然酵母のパンなんて。作れば作るほど、儲かんない。ふふ、腕も良くないし。修行足んないし。(自嘲)

僕    そんなことは……ないと……

女主人  で、辞めちゃったのよ、友達。続かなくて。パン屋に深く絶望して。パンなんて一生見たくないって。こっちともギクシャクしちゃって……。ヨーロッパのことわざにあるの。「天使の贈りもの、それがパン屋。悪魔の贈りもの、それがパン屋の労働」。他も何人か雇ったんだけど、続かない。給料少ないし、マジでつらいしこの仕事。

僕    朝も早い……。

女主人  え?

僕    いえ。――でも、続けてますよね、パン屋。それってなにかあるわけでしょ?

女主人  借金が、ね。内装やり変えて、ドゥコンディショナー=発酵機も買い換えた。がんばろうって、自分追い込んで。

僕    そうですか。「石窯風」に、投資を……

女主人  困ったもんでしょ。(自嘲)

僕    (思わずうなずく)ですね……あ、いや――でも――うまかったです、パン。天然酵母。

女主人  (堪らずに思いがあふれて)そりゃ中には――あたしのパンが口に合うって人もいるんだよっ。あたしのパンじゃなきゃって人が。――福島にも、あたしのパンが食べたいって人がいるの。直販もしてるんだけど、あれから、震災のあとも何度も行ってんの。やっぱパンは焼きたてがおいしいからね。

僕    でしょうね。

女主人  焼きたてのパンは――おいしいのよ。(自分に再確認するように言い聞かせる) ……あの人も、そう言ってた。

僕    あの人?

女主人  「石窯風」が、よ。

僕    ああ、お父さん。東北のパリぼくちゃん。――だと思います。パンは焼きたて。焼きたてが一番うまい!

女主人  ふふ。わかってんのホントに?

僕    はい。たぶん。

女主人  (思わず微笑んで)ま、いいけど。

僕    はい。(つられて微笑む)

       女主人は手を止め、「僕」を真っすぐ見る。

女主人  ――行く? 福島。

僕    あ――、お願いします。

女主人  でもあんた、福島行くんだったら、続けないと意味ないからね。

僕    はい?

女主人  天職だってんなら、天に召されるまで続けなきゃ。

僕    キリスト教かなにかですか。

女主人  え?

僕    信者さん?

女主人  そうじゃないけど。天職ってぐらいだから。パン屋も10年は続けなきゃ。そうじゃなきゃ、連れてかないよ。

僕    今の気持ちは、天職です。

女主人  そう。

僕    (ずいぶん小声で)たぶん。

女主人  え?

僕    いや、がんばります。

女主人  (軽く微笑む)がんばんなくってもいいけど。

僕    父さんも、死んだ父も、似たようなことやってたんです。

女主人  あんたのお父さん、パン屋なの?

僕    いえ。市民運動っていうか、平和活動っていうか、ボランティアの凝ったやつっていうか。夏の原爆の日にはヒロシマ行ったりして。そういうDNAがあるのかも……僕にも。

女主人  DNA、ねえ。……つながってんじゃん。

僕    え?

女主人  ヒロシマとフクシマ。

僕    え? あっ……、え?

女主人  (あきれつつ)原爆と原発。あんたホントに、その市民運動のお父さんとDNAつながってんの?

僕    一応、親子です……。

女主人  ……あたしのパン屋もDNAかな。毎日パン焼くのだけは苦になんない。腕だけは似てほしくないけど。ふふ……。ま、いいけどさ。(パン生地をまたこねている)じゃ、決まり! あした朝、2時ね。

僕    ええ? に、2時! 2時ぃ? 早過ぎませんかっ。それに2時って夜中だし。朝じゃないっ。

女主人  仕込みがあんのよ。やめるぅ?

僕    いえ……行かせてもらいます。

女主人  遅刻厳禁。

僕    はい。(微笑む)

       パン屋の窓の向こうから朝日が差し込んでくる。

       まるでその朝日から生まれ出たように、父さんくまんばちが飛んでやってくる。

僕    (独白)そのときでした、窓の向こうから朝焼けのきれいな光が差してきた。わずかにあいた窓の透き間から、赤く橙色に染まった雲が覗いてた。その茜の雲を背に颯爽とくまんばちが飛んできた。窓にぶっつかりながらも透き間をくぐり抜けると、パン生地をこねてる女主人の白い調理着の襟元に、ピタリと止まった。――(小声で慌てて)父さん、なにやってんの。ダメだよ、仕事中に。(女主人の後ろに回り手で払いのけようとする)

女主人  うるさいね、なに?(振り返る)

僕    ――あ。(女主人の顔がすぐ目の前にある。唇と唇がぶつかりそうになる)

女主人  ア――。な、なにしてんだよ。(照れている)

僕    すみません。その、くまんば……

女主人  (思わず)そういうことは厨房じゃダメ。

僕    え――。

女主人  え――。(どぎまぎする)そ、そういう意味じゃなくて――ちゅ、厨房以外だったらいいとかそういう意味じゃなくて、朝だし――って、夜だったらいいってわけじゃなくて――

僕    そうじゃなくて、くまんばちが、その。(女主人の襟元に手を伸ばす)くまんばちが出たんです。

女主人  え? どこに。

僕    そこ――、あ。いない。(くまんばちはどこかへいなくなっている)

女主人  (またパン生地をこねている……照れながら)くまんばちってのは、あんたが女を口説くときの手じゃないの。

僕    そんなことは。決して。

女主人  ま、いいけどさ。――いいけどって、そ、そういう意味じゃなくて。……ふふ。ふふふふ。アハハハ。(思わず笑っちゃう。笑いが笑いを生み出し、久しぶりに心底笑う)

僕    はい。(つられて微笑む)

       「僕」は窓の外の朝日を見る。

僕    (独白)そのときなぜか僕にはわかってた。もう二度と――、くまんばちの父さんに会うことはないだろうと。

女主人  なにぶつくさ言ってんの。そこの、小麦粉取ってくれる。その袋。

僕    はい。これですね。(厨房の隅に置かれていた小麦粉の袋を取ってくる)

女主人  そこのボウルに300グラム正確にはかって入れてくれる。

僕    はい。

女主人  (パン生地をこねている)職人は手ぇ動かしてなんぼだから。パン屋もそう。朝一番に起きて、手ぇ動かして、身体動かして。

僕    はい。(小麦粉を計量してボウルに入れている)

女主人  ま、口も動かしてていいけど。退屈だからね、パン生地こねるの。昔はパン生地こねる職人を慰めるために、その隣で1日中笛を吹いてたらしい。そんな仕事する、パン職人を助けるパン職人もいたってわけ。

僕    へえぇ。あ――だったら、くまんばちの話知ってます?

女主人  またくまんばちぃ。絞め殺すよ。

僕    そうじゃなくて、くまんばちとノミの話。飛べないはずのくまんばち。

女主人  どうせこの体形じゃ飛べません。

僕    そうじゃなくてですね。

女主人  なによ。(話を聞く気になっている)

僕    くまんばちってのは力学的にも、物理学的にも……

女主人  難しいこと言うのね。力学的にも、物理学的にも?

僕    やめますか。

女主人  ううん、話して。聞きたい。(パン生地をせっせとこねている)

僕    くまんばちってのは身体に比べて羽が小さいんです。バタバタバタって。で、力学的にも、物理学的にも、飛べないはずなんです。でも、自分じゃ飛べると思ってるんですね。で、実際飛べちゃってる。

女主人  ふんふん。

僕    飛べないはずなのに飛んでるんです、飛ぶことを疑いもしないから。

女主人  へえ。

僕    つまり、くまんばちは自分を信じてるんです、飛べるって。必ず飛べるって。露ほども疑ってないんです。

女主人  うん。

僕    一方ノミは、こいつは初めっから自分の何倍もの高さをジャンプして飛び越える能力と才能を持ってるんですけど、ガラスのコップに蓋されて………(とサイレントの演技の中、話し続ける………)

女主人  (パン生地をこねながら、僕の話を聞いている)

       ……いつの間にかテーマ音楽が静かに流れている。

       女主人はパンを作りながら「僕」の話を熱心に聞いている。

       ――ト「僕」はその場から少し離れ、女主人とそこに向かい合ってしゃべっている(はずの)「僕」の姿を横目で俯瞰しながら、独白する………

僕    (独白)……福島で、僕はどんなパンを焼くんだろう。どんな人たちと出会うんだろう。そもそも僕にパンなんて焼けるんだろか、おいしいパンが。――いや、そんなこと疑っちゃいけない、露ほども。これが天職なんだから……たぶん。

     父さん、また出てきてくれよ。(笑って)たまに、でいいからさ。ふふ。福島で先に待っててよ。――あ。もしかして父さんは、くまんばちが天職だったの? そうだろ。だって父さんは露とも疑ってなかった。信じてた、いつか核兵器のない世界がくるって。核のない世界が。平和な世界がくるって。そう信じてた、くまんばちみたいに。……僕も、今は少なくとも、飛べないくまんばちじゃない。飛べるくまんばちだ。――だよね、父さん。

       テーマ音楽が盛り上る。

僕    ……灯籠の灯りのような朝焼けの光の中、「石窯風欧州ブレッドのお店・フレンチバゲット」の厨房には、女主人と僕の――働く姿がある。

       テーマ音楽が流れる中……以下サイレントの演技で………

       「僕」は「飛べないくまんばち」の話をしながら、小麦粉をはかってボウルに入れ女主人に渡す。女主人に言われて、オーブンにパンを取りに行く。話しながら他所見をして、素手でパンの乗ったパットを取り出してしまう。熱くて「アチチッ!」と手を振る。女主人に叱られて厚手のグローブをはめてパットを取り出す。作業台に置いて焼き立てのパンの匂いを嗅ぐ。「いい匂い!」。女主人に勧められて熱々のパンを食べる。「うまい!」。また女主人に言われて、焼き立てのパンを店の棚に陳列する。その間も女主人は情熱を込めてパンを作り続けている。……

       テーマ音楽が盛り上る中、ふたりの働く姿を残しつつ、ゆっくりと暗くなる。

                                      (幕)



   【参考文献】

    小説『虫のいろいろ』 尾崎一雄


    ※この戯曲は、「日本の劇」戯曲賞2014の最終候補に残った作品です。2014年10月、作者自らひとり芝居で上演。

     その後、加筆削除推敲を重ね、ご縁があり、2022年8月から9月にかけて、東京芸術座さんによって上演されました。(北原章彦演出)

     今回、「演劇会議170号・2022年11月号」掲載を機に、東京芸術座上演台本に若干の加筆修正を加えました。


   広島友好(ひろしまゆうこう)

   劇作家。役者・演出もときどき。山口県宇部市在住。

   1990年より劇作を。2008年からシアターボトムを主宰。

   硬軟悲喜、さまざまな戯曲を執筆。各地の劇団により上演。

   西日本劇作の会代表世話人 日本劇作家協会会員

   受賞歴…テアトロ新人戯曲賞 青年劇場創作戯曲賞 他

  ☆上演のお申し込み及び創作劇執筆のご依頼は……広島友好へ

   Eメール hiroshimatomoyoshi@yahoo.co.jp

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