姫山物語(戯曲中盤)
(前半からの続き)
つぎ ああ、えらいことになったぞ。(家の者たちに向かって)おきくを探すのじゃ、おきくを! きーっ! おきくー! おきくー!
つぎ、きくの後を追って走り去る。
***
殿の館。
殿、老家臣、家臣。
家臣 ……という事の次第で、代わりに長者奴を捕らえて――
殿 もうよい! 下がれ!
家臣 いや、殿――
殿 下がれ!
家臣 はは。……(去る)
殿 くそ!
老家臣 若。お気を静めてください。
殿 うるさい! じいの言う通りおとなしく待っておればこの様じゃ。お前たちに任せておっても、何もうまくいかぬ。
老家臣 若。
殿 よし。(ト去ろうとする)
老家臣 どこへ行かれます?
殿 探しに行くのじゃ。
老家臣 探しに? 何を?
殿 娘じゃ。娘に決まっておる。
老家臣 それはなりませぬ。今はもう祭のころと情勢が違います。外には何やら不穏な気配が。ここだけの話ですが、一揆の噂も……。
殿 一揆……。
老家臣 また、恐れながら、お館さまのご病気も一段と重くなっておられます。このような時に若に何かあっては一大事。じいの責任が問われます。
殿 大丈夫じゃ。じいに迷惑はかけん。
老家臣 なりませぬ。
殿 ちっ。――あの時に名乗っておればよかったのじゃ。
老家臣 名乗る?
殿 こそこそと名を隠すような真似はせず、わしはこの館の主であると娘に話しておけばよかったのじゃ。そうすればこのように歯がゆい思いをせずにすんだ。
老家臣 それもなりませぬ。
殿 またじいのなりませぬじゃ。
老家臣 ならぬものはならぬのです。お忍びの時には決して身分を明かしてはならぬのです。
殿 だから何故じゃ?
老家臣 お館さまがお定めになった決まりだからです。お館さまの決まりは天がひっくり返っても地が割れても守らねばなりませぬ。ましてや民の上に立つ殿が自ら決めた法を破るようでは国は滅びます。
殿 ……。
老家臣 それはそうと、あの話、進めてもよろしゅうございますな。
殿 何の話じゃ?
老家臣 東隣りの国の姫君との婚礼の話にござります。
殿 やめじゃ、やめじゃ。
老家臣 が、しかし――、これも国のため、お家のため。
殿 耳にたこができておるわ。じいはわしが幼いころから、言うことといえば、国のため、家のため、なりませぬなりませぬ。
老家臣 はは。
殿 (傍白)わしのことなど本当は何も考えておらん。
老家臣 何か――
殿 ……。
老家臣 いずれ長者の娘も館へ参りましょう。牢に捕らえられた父を放っておく子はいないはず。それまでしばしのご辛抱を。
殿 よいな、娘が来ぬなら、嫁は取らぬぞ。
老家臣 はは。……(ト含み笑い)
殿 何じゃ? 何を笑うておる?
老家臣 いやいや、笑うてなどおりませぬ。喜んでおるのです。あの若が成長されたものと。
殿 何じゃと。
老家臣 このようなことを申しても今の若にはわかってもらえますまいが、女子などというものはこの世で一番信じられぬもの。あまり熱を上げられますと、後で痛い目に合われますぞ。はっはは。
殿 もうよい。(去ろうとする)
老家臣 若、どこへ?
殿 心配いらぬ。
殿、老家臣から離れる。去りかけて、家臣から呼び止められる。
家臣 恐れながら、申し上げます。
殿 ――お前か。
家臣 信じられぬものを信じるには、どうしたらよいか。
殿 何じゃ、それは? ――聞いておったのか。
家臣 例えばの話でございます。例えば女子というもの。これにはわたくし奴も何度か泣かされましたが、――その女子という信じられぬものを、信じるに足るかどうか知るためには、どうしたらよいか。
殿 聞きとうないわ。(しかし動かず立ち止まっている)
家臣 ……それは、試してみるのです。
殿 試す?
家臣 左様。女子のできそうにもないことを、やってみろと言うのです。
殿 できぬことをやれと申しても、できぬのが道理。
家臣 が――、そのできぬことをやってしまうのが、まことの愛。愛あればできぬこともしてしまうのが女子と申すもの。まことの心があるかどうか試すには、できぬことをさせてみるのが一番。
殿 できぬことを――させる……。
家臣 はは。
殿 わしはそんな人をだますような汚い真似は嫌いじゃ。
家臣 しかし、これもまた女子という生き物の不思議を知る一つの方法。くだらぬ戯れ言(ざれごと)と思い、お聞き流しください。
殿 もうよい。
殿、去る。
老家臣 おい、そこに誰かおるのか。
家臣 は、わたくし奴が。
老家臣 殿から目を離さぬよう、誰かそばにつけておいてくれ。
家臣 はは。(去ろうとする)
老家臣 待て。一つお主ならどうするか聞かせてほしいのじゃが。このところの世情の乱れ、はなはだ憂うるものがある。この民百姓の不平不満を一挙に静めるよい手立てはないものじゃろうか。
家臣 それには二つの方策があるかと存じます。
老家臣 ほほう?
家臣 一つは、商いを栄えさせ、皆の懐を豊かにし、腹を満たしてやること。さすれば、館への不平不満もたちどころに消えてなくなります。
老家臣 できればすぐにやっておるわ。波間の底に沈んだ景気というものはそう簡単には立て直すことはできん。
家臣 もう一つ――。
老家臣 申してみよ。
家臣 館の力を民百姓に見せつけること。
老家臣 ほう、どうするのじゃ?
家臣 館の力を嫌というほど知らしめる見せしめを行うのです。さすれば、民百姓も恐れをなして、館へ刃向かおうとする気持ちなどなくなるはず。ひいては、内に抱える家臣への引締めにもなります。
老家臣 見せしめか……。くわしく申してみよ。
家臣 例えば、長者を使うのです。
老家臣 長者を――?
家臣 もしも長者の娘が館へ来ぬ時には、これは殿への重大な裏切り。殿を裏切るものは――
老家臣 しっー!(手招きする)
家臣、老家臣に近づき耳打ちする。老家臣、ふむふむとうなずく。
ト家来、来る。
家来 申し上げます。若殿さまのお姿がどこにも見当たりません。
老家臣 何! きっと館の外へ出られたのじゃ。皆手分けをして探すのじゃ。
家臣、家来、去る。
老家臣 若も困ったものよのう。ふふふ。
ト暗くなる。ト舞台の一方に殿の姿。
殿 どこへ行ったのじゃおきく。わしはお前に会いたいばかりに――。(手に簪)これをお前にやろうと、わしの大事な物を、金では買えぬ大事な物を――
声――「若ー! 殿ー!」
殿 できぬことができること、――それがまことの愛……。
……暗転。
***
うめの家。粗末なあばら家。家の外に梅の木が一本ある。その日(きくの逃げ出した日)の夕暮。
うめ、家の奧を気にしながら仏壇に供えてある饅頭を取り、そばに置いてあった経文の書いてある紙に包み、懐に仕舞う。そして家を出ようとする。
トばばの声――
ばばの声 おうめ。おうめ。ちょっと来てくれ。
うめ はーい。(仕方なく引き返して奧に入る)
町の者に姿を変えた殿が人目を避けるようにしながらやって来る。
殿 ……しかし、あれが母なら鬼も母じゃ。逃げた娘を心配するどころか、気が違うたの親不孝のと口汚く罵り騒いでおる。おまけに下男下女に当たり散らし、犬まで怒鳴りつける有様じゃ。おきくが戻っておらんのはわかっておったが、もしやと思い長者の家に寄ってみた。しか し、あれではのう。あのような女子を仮にも母と呼ばねばならぬとは。本当の母はおらんと申したおきくの言葉はまことじゃった……。お、ここじゃな。この辺りで梅の木のある家といえばここだけじゃ。おうめならばおきく居所を知っておるはず……。(家の中を覗き見る)
うめ、出て来る。家を出ようとする。殿、うめに声をかけようとするが、また奧からばばの声がする。殿、隠れる。
ばば (出て来て)どこへ行くんじゃ?
うめ どこも行きゃあせん。
ばば なら、やや子の世話をせえや。
うめ じゃけど、おきくちゃんが心配じゃけえ、家の中にはじっとしちょれん。
ばば おきくさまの居所を知ちょるんか。
うめ ――知らん、知らん。
ばば 知っちょるんじゃったら、すぐにでも長者のかかさまに知らせんにゃいけんど。
うめ わかっちょる。
ばば しかし、長者さまが捕まるとは、恐ろしいことじゃ。
うめ うん。
ばば 長者さまの身も心配じゃが、もっと哀れなのはおきくさまじゃ。よっぽど館へは行きとうなかったんじゃろうのう。かと言って、家におることもできんで。……しかし、血は争えんもんじゃ。
うめ 血は争えん? 何じゃそれ?
ばば 一途に思いつめるとこは前のかかさまにそっくりじゃ。わしらには考えも及ばんようなことをしなさる。
うめ 何か知っちょるんじゃな、おばばは? 隠さんで言うてみいや。
ばば 実はな――おきくさまの本当のかかさまは南蛮の仏さまを信じておられたんじゃ。
うめ 南蛮の仏さま――?
ばば ああ。南蛮の仏さまを信じて信じて信じ抜いて、長者の家を捨ててどこかへ行ってしまわれたんじゃ。
うめ 何で南蛮の仏さまを信じると家を捨てるんじゃ?
ばば つまりは長者さまよりその南蛮の仏さまに惚れてしまわれたんじゃ。風の便りでは、どこぞの土地で、同じ仲間と一緒になって、南蛮の仏さまの国をつくろうとなされたとか。じゃが、みんな捕まってしもうて逆さ吊りにされたということじゃ。
うめ ……。
ばば ナムマンダブ、ナムマンダブ。哀れなことじゃ、あねいにやさしい人はおらんじゃったのに。こんなわしにもやさしい声をかけてくれた……。それに引きかえ今の長者のかかさまは――、わしゃ、あの声を聞いただけでも正直肝が冷とうなる――
つぎの声 おうめー。おうめはおるかの。
トつぎの声。ばば、ひゃあ!と震え上がる。
殿 誰か来た。(隠れる)
つぎ (出て来る。息が切れている)おうめ。おうめ。お前はやっぱり、おきくの居所、心当たりがあるじゃろが? はあん? わしゃもう、がまんできん。根こそぎ探して見つけ出して、きょうじゅうにでもお館へおきくを差し出すつもりじゃ。さ、どこにおる? 言うてみい!
うめ うちゃ、知らん。
つぎ 知らんことがあるか!
うめ 本当じゃ、本当に知らん。
つぎ うそを言うたら、承知せんぞ!
ばば まあまあ長者のかかさま、落ち着いてくだされ。
つぎ わしゃ腹が立つやら悔しいやらで、頭がかっかして今にも火が噴き出しそうなんじゃ。さ、おうめ、言うてみい!
うめ 長者のかかさま、うちゃ知らんのじゃ。
つぎ まだ言うか! お前とおきくはいつも連れ立って遊んじょったじゃないか。そこに案内せえや!
うめ ――おらん、おらん。うちゃもう探して来たんじゃ。
つぎ 探した?
うめ そうじゃ。おきくちゃんのことが心配で、あれからおきくちゃんのおりそうな所はみんな探した。
つぎ 探したのか。
うめ そうじゃ。じゃけど、おらんかった……。
ばば 本当か、おうめ?
うめ 本当じゃ。長者のかかさまにうそはつけん。
つぎ (へたり込む)はあ〜、わしゃ力が抜けた。おばば、水をくれ。
ばば へえ。(奧に去る)
奧で赤子の泣く声がする。
つぎ おうめ。
うめ はい!
つぎ ややが泣いちょる。うるそうていけんわ。
うめ はい!(去る)
つぎ 何じゃ。飛んで行きよった。わしとおるのがそねいにいやか。
ばば (椀を持って来る)さ、どうぞどうぞ。冷やあ水じゃ。
つぎ (飲んで)おばば。わしはこれほど弱ったことはない。ええ? 少しばかり幸せになろうとすることはいけんことか。
ばば いんやいんや。
つぎ わしはおきくのためを思うてお館からの召し上げの話を進めたんじゃ。きれいな着物をこさえてやったのもおきくに恥をかかせんため。言うてみりゃ親心じゃ。それがわからんのかのう。
ばば そうじゃのう。(トうめが赤子を背負い外へ出ていくのを認めて)おうめ、どこへ行く?
うめ この子がむずかるけえ、ちょっと歩いて来る。
ばば 遠くへ行くな。直に日が暮れるぞ。
うめ ああ。
うめ、子守歌など歌いながら二人から遠ざかる。やがて二人がこちらを見ていないのを確かめると足早にその場を去る。殿はうめの後を追う。その間もつぎの話は続いている。
つぎ おばばも知っちょろうが、わしは後添えじゃ。のちぞえ。長者の家の二番目のかかじゃ。
ばば へえ……。
つぎ それが何か悪いことか。わしは元々田舎もんじゃが、町の長者が娘御一人連れて困っちょるからと、親の言うままに嫁入りした。それからというもの、長者の家の気に入るように骨折って気を配って努めてきた。しかし家には前のかかの匂いがあちこちに染みついちょった。
ばば はあ、匂いがなあ。
つぎ ああ、どこもかしこも前のかかの匂いだらけじゃ。ひとつ茶碗にしてもそうじゃし、着る物もそうじゃ。前のかかの思い出につながらんものはなかった。それを少しずつ、きょうは茶碗を捨て、あしたは着物を取り替えて、ようやっと今の家をわしの匂いにして来たんじゃ。おきくもまだ小さかったが、できるだけようしてやった。……じゃけど、あの子はわしになつかんかった。おきくをわしの匂いに変えることはできんじゃった。
ばば そりゃあ、人の心は……
つぎ (ばばに構わず)なつかんにゃ、正直、血のつながっちょらん子じゃ、かわいくない。反りの合わんもん同士が一つ屋根の下におってもうもういかん。回りのもんは、わしがおきくをいじめるじゃ何じゃと陰口を叩く。おばばも知っちょろうが、皆がどねいに言いよるか――
ばば いんやいんや、わしは何にも見んし、何にも聞かん。
つぎ おばばもわしのことを嫌っちょるのはようわかっちょるんじゃ。
ばば と、とんでもない。わしが長者のかかさまを嫌っちょるなど……
つぎ ええ、ええ。わしは損な女子じゃ。皆のためを思ってすることが皆にはわかってもらえん。おきくは望まれて館へ行く、わしは残って長者の家を守る、これで皆が幸せになれるとわしは思うんじゃが、それはまちがいかの、ええ?
ばば いんえいんえ。
つぎ おばばに話しても何にもならんのう。耄碌して人の心がわからんわ。そうじゃ、こうしちゃおれん。あん人の所に行って、これからのことをよう相談せんにゃいけんかった。世話かけたの。(急ぎ去る)
ばば 人の心がわからんのはどっちの方かのう。恐ろしいことじゃ、恐ろしいことじゃ……(手を擦り合わせ、ぶつぶつと何か唱える)
暗転。
***
山の中。夕暮。菊の花が咲いている。
うめ、来る。赤子を背負っている。
うめ (小声で、しかし通るように)おきくちゃーん。……おきくちゃーん。
山の洞穴からきくが顔を出す。
きく 誰――?
うめ うちじゃ。うめじゃ。
きく おうめちゃん?
うめ 心配したぞ。
きく どうしてここにおるのがわかった?
うめ 何言うちょるんじゃ。おきくちゃんは昔から何かあるとここに隠れて泣きよったじゃないか。――ほら、腹減ったじゃろ。饅頭。(ト紙に包んだ饅頭を差し出す)
きく ありがとう。(紙を広げて見て)何、これ? お経が書いてある。
うめ ええ? お経の紙か……。またおばばがどっかのお寺でもろって来たんじゃろ。
うめは字が読めない。うめ、きくの手から経文の書いてある紙を取り、くしゃくしゃに丸めて捨ててしまおうとする。が、きくが紙を取り返して皺を伸ばし自分の着物の袂に入れる。きく、饅頭を頰張る。
うめ 長者のかかさまが血眼になって探しておったぞ。
きく ――うちはあの人、好かん。本当のかかさまなら、自分や家のことより娘の心を思うもんじゃ。うちはあの家の厄介もんなんじゃ。……かかさまはどうしてうちを捨てて出て行ってしもうたんじゃろう。
うめ おきくちゃん……。
間。
うめ これからどうする?
きく ……。
うめ いつまでも逃げちょるわけにもいかんし……。
きく ……。
うめ 長者さまはどうなってしまうんじゃろう。まさかあのままずっと牢に入れられちょるわけじゃなかろうけど……
きく (泣く――)
うめ ――。
きく うちは館へは行きとうない。
うめ わかっちょるよ。
きく ……。
うめ ……あれから、あの男に会うたんか。
きく ――!
うめ あの男じゃ、祭りで会うた――
きく あれから一度も会うてない。一度も会うてないし、どこにおるんかも、何をしちょるんかも、何もわからん。
うめ うちはあの男どうも好きになれん。何か隠しちょる。おきくちゃんのこともええこと言うばっかしで、本当は――
きく そんな風に言わんで。うちはあの人のことを思うと、何か知らん胸が苦しうなって――、ここがじわんじわん鳴って――。
うめ おきくちゃん。正直に言いいよ。
きく 何?
うめ どこまでいったんか、二人は?
きく ――?
うめ おきくちゃんはあの男と――、恋を交わしたんか。
きく 恋など交わしちゃおらん。心の内も話しておらん。うちが一人で一人で――
うめ 何じゃ、恋を交わしてないんか。うちはてっきり……
きく おうめちゃんはうちのことあきれちょるじゃろうね。馬鹿な女子と思っちょるじゃろうね。
うめ 何言うんか。
きく うちのこと、親を裏切る不孝者とあきれちょるじゃろ。相手するのもいやになったじゃろ。
うめ 本当怒るぞ、そんなこと言うたら。うちはそんなこと思ってない。
きく (泣く)
うめ おきくちゃん、よう聞くんじゃ。あの男と恋を交わしちょらんのなら――、忘れるんじゃ。
きく 忘れる――?
うめ そう。忘れてしまうんじゃ、あんな男のことなど。
きく できんできん。うちはもう、頭がどうかなってしもちょるんじゃ!
うめ おきくちゃん。
きく 頭が、頭の中がどうかなってしもうちょる。あんな男の顔など、うちはもう見とうもない――見とうもない、そう思うんじゃ――思うんじゃけど――
殿の声 見とうもないのは、どの男の顔じゃ。
きく あ――!
うめ 誰じゃ?
殿、出て来る。二人に近づく。
うめ (きくの前に立ちはだかりながら)何しに来た?
殿 お前は山道を歩くのが早いのう。まるで猿のようじゃ。途中で見失ってしもうたわ。
うめ うちの後をつけて来たんか。
殿 お前ならおきくの居所を知っておるじゃろうと思っての。家からずっとつけて来た。
うめ あきれたわ。
殿 おきく。
きく (殿に背を向ける)
殿 話がしたい。渡したい物がある。
きく ……。
うめ おきくちゃんは話などしとうないそうじゃ。あっち行け。
殿 すまんが、二人きりにさせてくれんか。
うめ 何度言わせるんじゃ。おきくちゃんはお前と話すことなんかない。お前のことなどとうに忘れておったんじゃ。それを何を今さら――
きく ――忘れてはおらん。
殿 おきく。
うめ ――邪魔じゃ邪魔じゃ。忘れてはおらんかも知らんが、話をしとる暇はない。大変なことが起きてそれどころじゃないんじゃ。長者さまがお館へ連れて行かれて、おきくちゃんは胸を痛めとるんじゃ。のう、そっとしちょってくれ。わかったじゃろ。わかったら、さ、あっち行った、あっち行った。(殿を向こうへ押しやろうとする)
殿 何をするか。
うめ 何をするか――なんて、もったいぶった口きくな。さ、去ね去ね。
きく おうめちゃん――。
うめ ?
きく 少しだけこの人と話をさせてくれんか。
うめ おきくちゃん……。
きく ちょっとだけじゃ。
うめ ……。
きく ごめんね……。
うめ (怒って)もう――、勝手にせえよ。うちは帰るで。
きく おうめちゃん……。
うめ、二人から離れる。しかし、帰りはしないで藪陰から二人の様子を見守る。
殿 どうしておった? 元気じゃったか。少しやせたのではないか。
きく (強がって)やせちゃおらん。かえって太ってしもうたわ。
殿 そうか。
きく あんたこそ、元気じゃったか、名なしの権兵衛さん。
殿 ああ。
間。
殿・きく (同時に)どうして――
殿 いや、
きく 何……?
殿 どうして、館へ行くのを断わった?
きく ――断わりたかったから、断わったまでじゃ。うちが館へ召し上げられる方がええような口ぶりじゃの。
殿 そうではあるが――、そうではない……。
きく どうせ、あんたには関わりのないことじゃったね。
殿 そんなことはない!
きく (殿の顔を見つめる)
ト二人組の家来がうめの隠れている藪陰にやって来る。
家来のいる所からは殿ときくの姿は見えない。
家来一、うめの肩を叩く。
うめ 何じゃ。うるさいの。今忙しいんじゃ。
家来一 おい、こら。そこで何をしとる?
うめ へえ! これは館のお侍さま――。
家来二 何をしとるのじゃ。
うめ いえ、別に、その、――やや子がむずかりますので、虫を見せておりまして――(家来が藪の向こうを覗こうとして)やや――しっー、虫が、その、驚いて、刺すかも知れませんから、ここに近づいては……(ト藪陰から家来たちを遠ざける)
家来一 この辺りで男を見かけんかったか。
うめ 男――! ……いえ、はて、さて、見かけませんでしたが……。
家来二 まことか。
うめ はい。――でも、その男が何か?
家来一 (家来二にささやく)この女子、面白そうじゃ、ちとからかってやるか。――うほん。その男はのう、一揆を企てておる極悪人じゃ。
うめ 一揆を――企てる――極悪人!
家来二 左様左様。隣国より侵入し、この国を中から乱さんとする悪者じゃ。
うめ ――!
家来一 おお、驚いたか。しかし、ここからが大事なとこじゃ。よう聞けよ。一揆を企てし男はもちろんじゃが、男と行いを同じくする者、またその男をかくまう者も、これまた同罪じゃ。
うめ 同罪?
家来二 そうじゃ。磔獄門じゃ。
うめ は、はりつけ――ご、ごくもん!
家来一 本当に男を見てはおらんな。
家来二 隠し立てはためにならぬぞ。
うめ み、み、み――(家来たち、うめを睨み近づいていく)――見てはおりません。うそは申しません。
家来一 まことじゃな。
うめ うそはついても餅つくな――いえいえ、餅はついてもうそつくなが、うちのおばばの口癖で、はい。
家来一 よし。ならばあやしげな男を見かけたらすぐに館に申し出るのじゃ。よいな。
うめ はい……。
家来たち、去る。笑い声がする。
うめ、震えている。
うめ 一揆……。磔獄門……。
うめ、息を殺して再びきくと殿の方をうかがう。
きく 何しに来たんじゃ、今ごろ? 何かこの辺りに用でもあったんか。
殿 これをどうしても渡したくてやって来たのじゃ。
きく 何……?
殿 (懐から布にくるんだ簪を出してきくに渡す)これじゃ。
きく ああ、きれい。
殿 どうじゃ、気に入ったか。
きく どうしたの、この簪?
殿 どうもせぬ。それをお前にやる。
きく え? でも――。
殿 さ、遠慮せず、受け取れ。
きく ううん。
殿 何を言う。
きく これ、どこで手に入れた? これは安いもんじゃない。どうやって買って来たんじゃ?
殿 買ったのではない。
きく じゃどうやって? まさか――
殿 金では買えぬ物がほしいと言ったではないか。
きく 言うた。言うたけどそういう意味じゃ――
殿 そうじゃない。これは母の形見の簪じゃ。
きく かかさまの、形見の――。
殿 そうじゃ。
きく 受け取れん、受け取れん。(ト殿の手に簪を返す)
殿 わしはお前との約束を果たしたいのじゃ。
きく 約束?
殿 金では買えぬ大事な物、それをお前にやる。
きく でも、そんな大事なもの――。
殿 何かをしてくれというわけじゃない。ただこれをお前にもらってほしいのじゃ。
きく でも――、うちはよう受け取らん。
殿 おきく――
ト殿、きくを抱きしめる。
きく あ――!
殿、きくにくちづけをする。
しかし、きく、殿から逃げる。
殿 怒ったのか。わしが嫌いか、わしが――
きく わからん、わからん。うちにはわからん。――もうどうしたらええんじゃろう。これからどうなるんじゃろう。
殿 おきく。
きく このままじゃ館へ仕えんにゃあいけん。家に戻ることもできん。あんたに会うこともできんようになる。
殿 ――おきく、わしの言うことをよう聞け。
きく ――?
殿 ええか、館へ行くんじゃ。
きく 館へ? うちに館へ仕えろと言うんか。
殿 そうじゃない。よう聞け。もしもお前がわしのことを本当に思ってくれるなら――
きく 本当に思うなら――何?
殿 館へ行き、お前のまことの心を話すのじゃ!
きく え――!
殿 まことの心を、殿の前で、何もかも正直に話すのじゃ。そうすれば、わしも――
きく できん――そんなことできん。
殿 おきく。まことの心があるならば、できぬこともできるはず。
きく うちは恐ろしい。恐ろしい。それに、おとさまはどうなるんじゃ、おとさまは?
殿 お前がまことの心からできぬことを成し遂げたなら、殿も長者を許すであろう。
きく そんなことがあるじゃろか。
殿 ある。
きく でも――
殿 このまま逃げても埒は明かん。やってみるのじゃ、もしもわしを信じるなら――
きく 何でうちを試すようなこと言うんじゃ。それが楽しいんか。面白いんか。
殿 そうではない。わしはお前を信じたい。信じたいからこそ言うのじゃ。
間。
きく ……あんたはいったい誰なんじゃ?
殿 それは……言えん。
きく どうして?
殿 お前はどこの誰かわからぬと人を信じられぬのか。わしを信じられぬのか。
きく そうじゃない。そうじゃないけど……。
殿 わしは約束を守った。
きく ……。
間。
きく お願いがある。
殿 何じゃ?
きく うちはあんたのかかさまの簪をもったいのうてよう受け取れん。じゃから、その代わりに、この菊の花をうちの髪にさしてくれんじゃろうか。
殿 菊の花を?
きく そうすれば今よりもっと強い心が持てる気がする。
殿 おきく。
殿、きくの髪に野菊の花簪をつけてやる。
きく ありがとう……。
ト家来たちがまた来る。うめ、気づいて、
うめ あ、また来た! おきくちゃんがあの男とおるのを見つかっては、――こりゃいけん!
うめ、家来たちが近づいたのを知らせるため、とっさに烏の鳴き真似をする。
うめ カアーカアー。キターキター。……
殿 何じゃ、烏か。えらくおかしな鳴き声じゃが。――いや、あれは――(家来たちの姿に気づいて)――わしはもう行かねばならん。
きく え!
殿 すまん。
きく いつ会える? 今度いつ――? うちはどこへ行けばええ?
うめ キターキター。
殿 またすぐ会える。(急ぎ去る)
家来たち、殿の姿に気づく。
家来一 あ、あそこに――(殿の後を追って去る)
きく (家来たちが殿の後を追うのを見て)あ――! ……会えるじゃろうか。会えるじゃろうか……。
うめ、きくの所へ来る。
うめ どうした、おきくちゃん? あの男は何て言いよった?
きく ああ、おうめちゃん。胸が鳴る、胸が鳴るよ!
うめ おきくちゃん。
きく うちは殿さまの前で正直に言う、あの人が好きと正直に言う。
うめ 何言いよるんか! そねいなこと言うたら何が起こるかわからんぞ。命がのうなってしまうかも知れん。殿さまはすこぶる短気じゃという噂じゃ。
きく 正直に話せば殿さまもわかってくださるはず。
うめ あの男にそう言えと言われたんか。
きく (うなずく)
うめ やめろ。あの男の言うことなんか聞いちゃいけん。
きく どうして?
うめ あの男はおきくちゃんを巻き込むつもりなんじゃ。殿さまに召し上げられるおきくちゃんを利用して、何かするつもりじゃ。
きく どういうこと?
うめ あの男は一揆を企てちょるんじゃ。
きく 一揆――!
うめ さっきも館のお侍があの男を探しよった。あの男は一揆を企てちょる流れもんじゃ。
きく そんな――。
うめ あの男と関わり合いになっちゃいけん。おきくちゃんだけじゃない。長者さまも、長者のかかさまも皆どうなるかわからん。
きく どうなるかわからんって……?
うめ 磔じゃ。
きく え!
うめ 一揆に関わったもんは皆磔じゃ。
きく (強がって笑いながら)……うそじゃ。おうめちゃんはうちをからかいよる。うちがおうめちゃんの先を越して恋をしたから――
うめ そんなことで言いよるんじゃない。本当にあの男は――
きく ――うちはあの人がどこの誰かなんて関係ない。うちはあの人を信じちょる。
うめ おきくちゃん。
きく うちはもう逃げん。正直に言う。正直に皆の前で言う。(走り出す)
うめ おきくちゃん! どこ行くんじゃ――!
きく 館へ! おとさまのとこへ、おとさまのとこへ!(去る)
うめ おきくちゃん!
うめ、きくの後を追う。
(戯曲後半へ続く)
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